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宗教と信念
「宗教」について、皆様はどのお考えでしょうか?また、我々が宗教に入信したり、洗礼を受けるのは、どうして、どのようなタイミングなのでしょうか?
日本だと、皆様も1度は創価學会のお誘いを受けたことがあるのではないでしょうか?やっている方を否定も肯定もしません。しかし、「選挙前になると思い出したかのように、急に連絡して来るのだけは辞めて下さい」笑
それに対して、相手はどう思うでしょうか?上手い例えが思いつきませんが、「お給料日になったから、人にお金を借りたり、奢ってもらったり」「出世や有名になったから、急に連絡してきたり」「ネットワークビジネスの勧誘の為に人を誘う」のと同類な氣がしています。全ては、相手がどのように捉えるか、その視点を欠いている氣がしてなりません。これは、完全に和多志の主観です。所属されている方を、否定しているつもりはございませんし、これは、和多志に御縁の合った方々に対して抱いた率直な感想です。
和多志は、高校生の時に、小學生の時からの友人に誘われて碑文谷にある会館に行ったことを覚えています。お経を上げました。しかし、入信はしませんでした。それは、やる意味があまりわからなかったです。もちろん、やってみないと何もわからない、と思いますが、やりたいとも思えませんでした。この決断は今でも後悔していません。
宗教に限らず、ある組織や企業にお金を投じるということは、そのお金が最終的に誰のもとに行くのか?そこも考える必要があると思っています。というのも、自分の中で、日本の宗教法人は企業との癒着やお金の繋がりが多い氣がしています。「統一教会は政治を束ねて、創価学会は企業を束ねる」という考えもあります。宗教や信念に働きかけて、洗脳して、都合の良いように、動かされているだけな氣がしてなりません。もちろん、教えだけ見れば、素敵な内容も多いんだと思います。それなら、お金を払って、仲間を募ったり、増やしたりすることに、何の意味があるのでしょうか?単純に、考えだけなら本や人からの話を聞いて、自分で學ぶだけで良くないでしょうか?どうも、「宗教内で評価されること=宗教法人の出資者や大元の狙いや都合の良いことをすること」という氣がしてなりません。これは、持論ですが、「宗教組織に属すること≠宗教を學ぶ」で、學ぶ以外の余計なものが多過ぎると思います。
和多志は學生時代に摂食障害でした。当時、自分の中に確固たる信念(それがどこかの宗教かわかりませんが)があれば、苦しまずに済んだかもしれません。しかし、今では貴重な経験をさせて頂けたと感謝しています。今も、信念と言えるものがあるのか、わかりませんが、自分ではあると思っていますが、自分の人生における体験や経験を通じて自分なりの人生哲學が持てている氣がしています。この考えと、著名な偉人や本で出会った考えと似ていることが非常に多くて驚いている日々です。これは、人それぞれの好みもあるかもしれませんが、自分は「文字は奇跡だ」と感じていますが、奇跡だと感じられる為には条件があるような氣がします。宗教や哲學的な教えを學んだだけで、それを自分の人生のすぐに取り入れて実行できる人が、どれほどいるでしょうか?少なくとも和多志は、読んだだけじゃ変わらないと思っていました。自分の肉体や体を使って経験したり体験したこと、それに自分の感情が加わり、それらを振り返った時に、色々な出来事を集約して自分の中での生きた知恵として、心に刻む(帰納法)ことで、少しずつ自分の中での人生哲學を築いている氣がします。しかし、常に意識していることは、自分の経験則や五感で感じたり認識したりできることを過信しすぎずに、常に断定せずに「そうかもしれない」(そうではない可能性も含む)と捉えるようにしています。
最近、思うことは、「信念とは別に宗教や哲學に限ったことではない。常に自分の描いた高い理想やビジョンやこう在りたいという志も信念に成り得る」と?
心にどこかぽっかり隙間が空いている状況のときであったり、社会の中に存在するちっぽけな自分という認識を抱いている時に、宗教に入りやすいのかもしれません。
是非、皆様のことも教えて下さい。和多志は特定の宗教には属していません。何かを盲信することで、視野が狭くなる、偏った見方や捉え方をしてしまう、と考えるからです。心のバランス大事ですね
彌榮ー
※毎日、ブログ書かれている方々が本当に凄いと思います。書けるだけ、できるだけ、続けて書いて行こうと思います。ネタ切れになる前に皆さんの声を聞かせて下さい。コメント蘭がないので、ご意見やご感想はメールにてお願い致します。iyasakadou369@gmail.com