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他は是我に非ず?
おはようございます。今日は晴れているものの寒さを感じる日となりそうですね。昨日は結構恥ずかしい記事を書いてしまいました。
皆様は抽象的な表現が多くて理解に苦戦した本と出会ったことはございますか?また、その場合、どうしていますか?(特に神秘思想家や哲学者などの昔の本に多いかもしれません)和多志は、以前までは、そのような難しい内容の本と出会った場合には、途中までで読むことを辞めて、もう少し初心者向きに書かれた易しい内容の本を読んだ後に読んでみる、という試みをしておりました。ただ、この場合でも、原書を完全に理解するまでに非常に多くの本を読む必要があります。また、本を読むということと並行して、現実世界での経験や体験を通じて、本の内容が理解出来たという経験もあるので、本だけに留まらずに、現実世界で、氣になる人に会ってみたり、尊敬する人に会ってみたり、することも本を読むことと同様に大切なことのように思います。
先日、ある本の中に、どんなに難しいという内容の本でも何週間も繰り返し読み続けることで、わかるようになるものだという内容のことだ書かれていました。以前までの和多志は、この場合、一旦保留して、他の本や現実の人と会った、り氣になる場所に出かけてみたりしているうちになんとなく腑に落ちる経験があったので、そうしていました。ただ、この考えを聞いて、そういう経験もしてみたいと思いました。確かに、理解できないということは、自分自身の中に、それを紐解く経験や体験や考えや価値観がないから、理解ができないのかもしれません。そのような、自分には理解できない領域を理解しようとする作業の積み重ねによって、人は成長するのかもしれません。「一見難しくて難解な本でも何回も何回も読むことで理解ができる。」実際にそういった経験をした人がいる、という事実があるだけで、どうやら自分にもできるかもしれないと思わせてもらえます。自意識過剰ではなく、単にポジティブなだけかもしれません。
和多志が摂食障害になって、克服する為に、最初に行った行動は、環境を変えて、摂食障害を克服した経験のある人に会いに行くということです。お医者さんには行きませんでした。というのも、摂食障害になったことのないお医者さんに悩みを相談させて頂いて、同情されて?されてるフリして、適当な薬出されて終わりで、その繰り返しだと思ってしまったからです。別にお医者さんを否定も肯定もしませんが、あくまで自分の主観です。実際に、「摂食障害を克服した経験のある人と会う」ということには、非常に大きな意味や意義があるのだと思います。お会いするだけで、自分も克服することができるかもしれないと思えて来たのです。1人で苦しんでいた渦中にいた時には、どうしていいかわからず、同じような日々の繰り返しで、変えたくても何も変わらない状況や現状に嫌氣がさし、更に自己嫌悪に陥っていました。そんな中、克服した人というのは、一筋の光でしかなかったです。やり方はわからないけれども、実際に克服されて人が目の前に存在している。ただ、その事実だけがどれだけ背中を押してくれたか、支えてくれたか。過程は今はわからないけれども、その存在にどれだけ救われたことか。そのような経験があってから、自分自身は、元摂食障害ということは積極的にアピールするようになりました。それは、摂食障害で今苦しんでいて死にそうな人にとっての、一筋の光になれるのなら、なりたいという想いからです。もちろん、摂食障害は特に女性に多いとされています。自分は男なので、相談や話を聞いて貰いにくいかもしれません。周りでも、摂食障害を実際に克服された女性も、何人も知っているので、少しでもお力になれたら、倖いでございます。
摂食障害に関わらず、どんな病氣も自分自身にしか治せないものだ、と和多志は本氣で思っています。
和多志が摂食障害の時にそのように考えることができた理由は、もしかしたら、自分自身の実体験があったからかもしれません。それは、「小麦を控えて花粉症を克服した」という人の話を聞いて、自分も小麦と牛乳を2年間徹底的に抜いてみました。すると、花粉症とアレルギー性鼻炎が克服されたのです。皆様は何を信じますか?和多志は目の前の人を信じます。信じたいです。信じる者は救われる?
彌榮ー