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2025-03-17 11:39:00

『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢

 おはようございます。昨日は急に冷え込んで来ましたね。かと思うと今日は暖かいです。もう春がすぐそこまで来ていますね。

 昨日は、結婚したことない自分が結婚について語ってしまい、申し訳ございませんでした。和多志がハマっているアニメ「チ ー地球の運動についてー」が土曜日に最終回を迎えました。今回も非常に面白い内容でした。この作者の20代の魚登さんの作品をもっとみたいです。漫画読むのがあまり得意でないのですが、そろそろ漫画の読み方を覚えた方が良いのかもしれないと思いました。漫画から教わることって結構多いとよく聞きます。

 皆様は、たとえどんな犠牲を払ってでも、成し遂げたいことはございますか?和多志も自分がこのような想いを抱くなんて想像もしていませんでしたが、それに近いようなことがあります。ところで、ギリシャ語で「驚き」「驚嘆」「驚愕」を意味する「タウマゼイン」。古代ギリシャでは「知的探究の始まりにある驚異」とされているこの言葉。この世の美しさに痺れる肉体のこと、そして、それに近づきたいと願う精神のこと。つまり―――「?」と、感じること。和多志はアニメを通じて初めてこの言葉を知りました。まさに自分はこのタウマゼインに突き動かされているのではないか、と氣がつきました。真理を知ることが、最近特にとても面白いと感じます。信じることと疑うこと。和多志はどんなもともまず信じたいと思います。ただ、自分が思っていること、感じていること、考えていることに対しては、常にどこかで疑っている氣もします。

***引用***

 『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なことじゃないかってことです。

 第三者に反論が許されないそれは―――――信仰だ。

 信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究とは棲み分けられるべきでは?

(4巻 p120~123)オクジー

***引用***

アニメの中のオクジーさんの考え方と自分の考えが似ていると感じました。彼の言うそれは、科学哲学者のカール=ポパーの言う「反証可能性」であり、心理学者の鈴木光太郎の言う「科学とは、絶対的真実を認めず、常に誤りを修正し続ける活動」でもあるようです。和多志は自分の人生の体験経験を通じて、今のこのようなスタンスとなっていますが、これは、単に学術や研究に限らず、どんな人間にも持った方が良い考え方や意識な氣がします。また、常に疑念と信念を持つことが大事なのかもしれません。疑念がないと、それは盲信であり信仰であると思います。信念がないと、道を失ってしまうと思います。

「より洗練されたものになるために反論可能性を残すべきという科的な態度」と、「自分を感動させたもののために他人の言葉に耳を貸さず己の心に殉じるという信仰への態度」は、オクジーの中で矛盾しません。前者は世界にとっての地動説であり、後者はオクジーにとっての地動説。別の言い方をすれば、前者は地動説という枠の内側での論理的整合性の話であり、後者はその枠組みそのものへの思いなのです。彼の生命は、この後に絶たれるのかもしれません。ですが、地動説を残そうとする彼の思いは、また次の人間へと託されるはずなのです。それは積み重なる知なのです。アニメを見ていない方は申し訳ございません。

「この世の美しさを追求したい。たとえ、どんな犠牲や代償を払っても。」

「迷いの中に倫理がある。迷わなくなった時点で、信念が呪いとなる。迷い続けることで、色々なものが見えてくる。」

 

彌榮ー