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「物々交換」という嘘?
お早う御座います。この前の水曜日は朝早くから、車で神奈川県大和市の「なないろ畑」さんにお野菜の仕入れに行って来ました。行った先で、コーヒーをご馳走になりながら、男2人で語る最高のモーニングタイムを過ごせました。ご馳走様です。消費者参加型農業というスタイルで、農場をされている関係で、滅多に小売店にお野菜を卸していないようでしたが、なぜか和多志のお店には卸して頂けることになりそうです。本当に、御縁というか、関わる人に支えられて今の自分が存在しているなーと感じる一幕でした。
ところで、金八先生はご存知でしょうか?人間という漢字は、人と人との間と書きます。人という字も人が支え合っているものが象形文字として漢字になったと教わったと記憶しております。皆様はお金と信用のどちらが大切ですか?もちろん、0,100にどちらかだけあれば良いと極端な話をするつもりはございません。ただ、和多志は、信用だと思います。ここについても、昔から考えさせられて来たテーマでした。全く誰からの信用が無くても、お金さえあれば生きて行ける世の中のように思えるかもしれませんが、そんなことはないと思います。お金社会であってもある程度の信用は求められ、信用がない場合には取引してもらえない可能性もあります。また、お金があったとしても、食べ物を売ってくれる人が成立しないと買うことはできません。和多志はある時から、真剣にお金が無くても信用さえあれば生きて行けると考えるようになりました。また、信用があれば結果としてお金も嫌でも入ってきてしまうような氣がしています。お金は昔、物々交換だったと言われていますが、それも文化人類學者と経済學者によって論争が続いているテーマのようです。文化人類學者が言うには、貨幣の始まりは「物々交換」じゃない。物々交換で経済が成り立っている部族社会というのは、この地球上のどこにも発見されたことがない。経済が回っている仕組みについては、部族によって多種多様。アメリカンインディアンのセネカ族は、ロングハウスという今で言う巨大シェアハウスにて共同生活していた。お野菜や食料についてはロングハウスの貯蔵庫にて保管されており、女性たちが作る評議会にて、誰にどのように分配するかを決定していたようです。
つまり、経済生活は、人間関係を切り離せない。人間関係抜きには語れない。ことを示している。人間関係と必要なものをどのように調達してくるかというシステムが密接な関係だった。よく言われるように昔は隣の家の人に醤油を借りたりしていた。今では考えられないという地域や人が多いと思います。それは「信用経済」(お互いの信用によって経済が成り立っている)貸し借りが誰かの負債になったり借金になったりすることはない社会。みんなが大家族(なんの取引もない。)そもそも、和多志たちが、生活していく上で誰にも借りを作らずに生きていくことは不可能。幼い頃には両親に育てられた。借りがある。恩義。今では、「必要なものはお金を出して市場から買ってくれば良い」という考えが蔓延しているように思える。恩義と借金・負債(恩義が明確に数値化されたもの)。恩義を明確に数値化して、それを返済することで、取引終了となってしまう。その人との関係性が、具体的な金額化することで終わってしまう。もう、今後お付き合いする氣のない人に対しては、この取引はありかもしれませんが、親に対して、これまで育ててくれて有難うございます、という氣持ちを実際の数値化した金額という形で支払う息子がいたとしたら、どうでしょうか?その恩義の氣持ちもお金も見方によっては有り難いと思われるかもしれませんが、別の見方では、この息子は親との関係性を清算しようとしていると思われるかもしれません。
和多志はある人から、差し入れを頂いたことがあります。皆様もあるかもしれません。その方にお礼を渡しました。そうすると、またお礼を頂きました。すると、またお礼を渡しました。永遠に続きます。感謝の循環であり、愛の循環です。このような社会になったら良いなと本氣で思っています。
お読み頂き有難うございます。もう少しブログ頻度を上げようと思います。
彌榮ー。マハロ
この物々交換という考えも、ある意味では、和多志たちがそのように思った方が都合が良いと考える方々が、和多志たちに植え付けた洗脳なのかもしれません。
社会通貨:日用必需品のやり取りには不要。何かの賠償や贖いをする場合に 「贖罪の証」として使われたのが、始まりだった。社会生活を円滑に行う為に使われたもの。