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2025-03-11 11:39:00

中村天風さんの名言(2)

 おはようございます。少しずつ暖かくなって来て春の訪れを感じるようになりましたね。今日は定休日です。昨日は、久しぶりに渋谷に行って自然栽培農家さんとお会いして来ました。今日も昨日に続いて、中村天風さんの「運命を拓く」から自分が強く共感した内容について抜粋させて頂きます。

 「潜在意識は、宇宙霊と同様、一切のものと作り出し産み出す創造力を有している。」

 「昔から哲學も宗教も修養法も、全て”心の持ち方””心がけ”ということを人生の一番重要なものとしているのである。心理学では、これを暗示の無条件感化といっている。」

 「自分が思っていて、それが直接的には自分の心の態度を、そして結果において自分の人生や生命に大きな影響を与えるものは、、、、”言葉”である。」 

 「人生というものは、言葉で哲學化され、科學化されているかたである。すなわち言葉は人生を左右する力があるからである。」

 「その一言一言、その言葉全てが、人生に直接的に影響する暗示となる、という大事な宇宙真理を絶対に忘れないこと。」

 

○言葉の誦句

「和多志は今後かりそめにも、我が舌に悪を語らせまい。否、一々我が言葉に注意しよう。

 同時に今後和多志は、もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、悲観的な言語で、批判するような言葉は使うまい。

 終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇氣と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。

 そして、宇宙霊の有する無限の力が我が生命に受け入れて、その無限の力で自分の人生を建設しよう。」

 

彌榮ー

2025-03-10 11:39:00

中村天風さんの名言(1)

 和多志が特に共感して、良いなーと思った内容を抜粋しました。読んでみてください。

 「どんな場合にも、心の思考作用と、宇宙を司る宇宙本体の創造作用ー物を産み出す力ーとは、別々に分かれているのではなく、本質的に、一つのものであるということを忘れてはならない。」

 「心というものは、万物を産み出す宇宙本体の有する無限の力を、自分の生命の中へ受け入れるパイプと同様である。」

 「今まで気付かずにいたかもしれないけれども、人生の一切は、健康であろうと運命であろうと、肉体も、心も、また環境も、すべてが人の心によって創られているものである。」

 「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ。」「心の思考が人生を創る。」

 「何か人間以外にできないことを人間にさせるために、他の生物にない力を与えられている。その力があるから万物の霊長なのだなあ。」

 

○力の誦句→毎晩寝る前に唱えたら良いことがあるかもしれません(^.^)

「和多志は、力だ。

 力の結晶だ。

 何ものにも打ち克つ力の結晶だ。

 だから何ものにも負けないのだ。

 病にも、運命にも、否、あらゆる全てのものに打ち克つ力だ。

 そうだ!強い強い力の結晶だ。」

2025-03-09 11:39:00

他は是我に非ず?

 おはようございます。今日は晴れているものの寒さを感じる日となりそうですね。昨日は結構恥ずかしい記事を書いてしまいました。

 皆様は抽象的な表現が多くて理解に苦戦した本と出会ったことはございますか?また、その場合、どうしていますか?(特に神秘思想家や哲学者などの昔の本に多いかもしれません)和多志は、以前までは、そのような難しい内容の本と出会った場合には、途中までで読むことを辞めて、もう少し初心者向きに書かれた易しい内容の本を読んだ後に読んでみる、という試みをしておりました。ただ、この場合でも、原書を完全に理解するまでに非常に多くの本を読む必要があります。また、本を読むということと並行して、現実世界での経験や体験を通じて、本の内容が理解出来たという経験もあるので、本だけに留まらずに、現実世界で、氣になる人に会ってみたり、尊敬する人に会ってみたり、することも本を読むことと同様に大切なことのように思います。

 先日、ある本の中に、どんなに難しいという内容の本でも何週間も繰り返し読み続けることで、わかるようになるものだという内容のことだ書かれていました。以前までの和多志は、この場合、一旦保留して、他の本や現実の人と会った、り氣になる場所に出かけてみたりしているうちになんとなく腑に落ちる経験があったので、そうしていました。ただ、この考えを聞いて、そういう経験もしてみたいと思いました。確かに、理解できないということは、自分自身の中に、それを紐解く経験や体験や考えや価値観がないから、理解ができないのかもしれません。そのような、自分には理解できない領域を理解しようとする作業の積み重ねによって、人は成長するのかもしれません。「一見難しくて難解な本でも何回も何回も読むことで理解ができる。」実際にそういった経験をした人がいる、という事実があるだけで、どうやら自分にもできるかもしれないと思わせてもらえます。自意識過剰ではなく、単にポジティブなだけかもしれません。

 和多志が摂食障害になって、克服する為に、最初に行った行動は、環境を変えて、摂食障害を克服した経験のある人に会いに行くということです。お医者さんには行きませんでした。というのも、摂食障害になったことのないお医者さんに悩みを相談させて頂いて、同情されて?されてるフリして、適当な薬出されて終わりで、その繰り返しだと思ってしまったからです。別にお医者さんを否定も肯定もしませんが、あくまで自分の主観です。実際に、「摂食障害を克服した経験のある人と会う」ということには、非常に大きな意味や意義があるのだと思います。お会いするだけで、自分も克服することができるかもしれないと思えて来たのです。1人で苦しんでいた渦中にいた時には、どうしていいかわからず、同じような日々の繰り返しで、変えたくても何も変わらない状況や現状に嫌氣がさし、更に自己嫌悪に陥っていました。そんな中、克服した人というのは、一筋の光でしかなかったです。やり方はわからないけれども、実際に克服されて人が目の前に存在している。ただ、その事実だけがどれだけ背中を押してくれたか、支えてくれたか。過程は今はわからないけれども、その存在にどれだけ救われたことか。そのような経験があってから、自分自身は、元摂食障害ということは積極的にアピールするようになりました。それは、摂食障害で今苦しんでいて死にそうな人にとっての、一筋の光になれるのなら、なりたいという想いからです。もちろん、摂食障害は特に女性に多いとされています。自分は男なので、相談や話を聞いて貰いにくいかもしれません。周りでも、摂食障害を実際に克服された女性も、何人も知っているので、少しでもお力になれたら、倖いでございます。

 摂食障害に関わらず、どんな病氣も自分自身にしか治せないものだ、と和多志は本氣で思っています。

 和多志が摂食障害の時にそのように考えることができた理由は、もしかしたら、自分自身の実体験があったからかもしれません。それは、「小麦を控えて花粉症を克服した」という人の話を聞いて、自分も小麦と牛乳を2年間徹底的に抜いてみました。すると、花粉症とアレルギー性鼻炎が克服されたのです。皆様は何を信じますか?和多志は目の前の人を信じます。信じたいです。信じる者は救われる?

彌榮ー

2025-03-08 11:39:00

親子と母子

 おはようございます。何だかんだ、寒さが続いていますね。本日もよく見ると雪のようなものが降っていますね。暖かくしてお過ごし下さい。

 昨日の記事を読んでいたらもっと書きたくなって来たので、続きます。

 結婚という制度はあくまでも制度であって、政治的な社会的な何かしらの意図があって定められたのかもしれません。人口を減らす為なのか、優勢遺伝を減らす為なのか、家族という概念をより狭いものにして、資本主義や個人主義と色を濃くする為なのか、はたまた、和多志のようなモテない男性を救う救済の為なのか、わかりません。このルールがあることによって、決してどんなに多くの女性からモテている男性でも、1人の女性としか一緒に居られないのです。また、このルールがあることによって、モテない男性にも、女性と結婚するチャンスがあるのかもしれません。一夫多妻制が長年続いていたようですが、この辺りはある程度裁量が与えられていても良い氣がします。

 ところで、皆様はおじいちゃん、おばあちゃんが好きですか?和多志は大好きです。幼い頃から、実家に来てくれて一緒の時間を過ごせるだけで幸せでした。また、小學生以降に1人で動けるようになってからは、自分でおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行ったりもしました。横浜の金沢八景からバスで15分の所に母方の祖父母が住んでいました。祖父が町内会長をしていたということもあって、一緒に町内を回ったり、イベントがたくさんあって楽しませて頂きました。また、山の中の畑を借りて自給自足の為に無農薬で農業をしていたので、その手伝いをしたり、おじいちゃんが育てたお野菜を食べるのが大好きでした。大人になってからは、中々会う時間がなく、最後に会ったのは、都内の病院にて入院している時でした。未だその時は生きていましたが、自分の中では死んだも同然のように思えて自然と涙が溢れて来ました。おじいちゃんの耳元で「有難う」とだけ伝えてその場を離れました。今思うと、もっとおじいちゃんと真剣に向き合って、彼が生涯を通じて経験したことなど、真剣な話をもっと聞きたかったと。目の前の生活の為の仕事に翻弄されていて、本当に大切なものが未だ何なのかわからなかった時期でした。もうあれから、6年が経ちました。本当に月日が過ぎ去るのは早いなーと思います。

 お客様の中で、400年先祖代々で同じ場所に住んでいるという方がいました。この方は、おじいちゃんおばあちゃんのご両親とも一緒に生活していたようです。お料理やお味噌作りや生活のあらゆる智慧を受け継いでいたようです。そういうお話を聞くと、自分の曽祖父母に会ってみたくなりました。この方のように、何世代にも渡って同じ家に住むことが当たり前だった時期もあることを考えると、時代の変化を感じます。どちらが良い悪いではなく、そんな生活も経験したいなーと思いました。ただ、歴史は繰り返すという言葉があるように、氣がついたら昔のように大家族で一緒に暮らしていることもあり得るかもしれませんね。今の核家族化の動きは1950年以降アメリカによって普及されたような氣がします。どのような意図を持って、そうなったのかわかりませんが、ここまでを振り返ると、原点回帰した方が良い時期に来ているかもしれません。

 社会に出ると、様々な方と知り合うと思います。もちろん、素敵な方も多くいます。家族の人よりも大切に思ってくれる方や愛を与えてくれる方など。時には我欲に溢れて欺いてくる方など。そのあらゆる経験は、必ずその人にとって必要な経験だと思います。だから起きているのだと思います。その体験や経験を通じて、何を思うのか、どう感じて、どう捉えるのか、その時の心の声を向き合うことは必要な過程な氣がします。ただ、思うことは親子という信頼や結びつきは切っても切れないものがありますし、ずっと続いていくものに思います。特に母親と子どもとの結びつきは特別なものを感じます。和多志は男性なので、自分が母親になって、そういった体験をすることは出来ませんが、母親との関係で息子視点ではありますが、大いに感じることは出来ています。

 つい先日、自分の0-12歳の時のことを母親に訊いてみました。「母親にとって、自分はどんな存在だったか?和多志はどんな子どもだったか?」と。すると母親は「2人目の子どもが出来てとても嬉しくてしょうがない感じだった事はよく覚えています。達也が甘えん坊だったので、いつも和多志のそばに居て、兄のサッカーの応援の時も和多志の足の甲に座ってサッカーを見ていて可愛いなと思っていました。幼稚園の頃から、和多志が自転車で色々な所に連れ回していたせいか、いつも嫌がらずに付いて来てくれて嬉しいなーと思っていました。小學校に入る頃から、1人でも行動出来る子になって来たように思います。サッカーにも夢中になって1つ1つ真剣に取り組んで成果を上げていたように感じました。」読んでいて恥ずかしくなります。足の甲を椅子代わりにして、座っていたことは今でも覚えています。これが客観的なのかわかりませんが、脚色して良く表現して頂いているようにも思えました。この質問をしたのは、ある本で自分自身についてより知る為のワークとして紹介されていたので、知りたくなって尋ねてみました。和多志がこの話を聞いて思ったことは、非常に愛されていたということです。また、兄に対して母親の愛情を独り占めしていて、兄に我慢をさせてしまっていたかもしれない、ということを思いました。また、もしかしたら、父親に対しても母親を独り占めしていたと思われていたかもしれません。また、幼稚園の時の自転車の話は、嫌がらずに付いて行くも何も自分にその選択の余地があったのか、疑問に思いました。ただ、喜んで貰えたのなら、それは良かったです。

 親も人間なので、出来ない所に目を向けるのではなく、出来る所や長所にもっと目を向けていきたいと思った出来事でした。何かを求めないで大丈夫です。ありのままで、在るが儘で。それをまるっと受け入れてくれる人が、きっと親なんだと思います。

彌榮ー

 

2025-03-07 11:39:00

結婚と家族

 おはようございます。今日は久しぶりに太陽が顔を出してくれそうですね。今朝初めて近くのぽかぽか公園に行って来ました。広くて日向ぼっこには最適な場所です。もう少し暖かくなったらいってゆっくりしたいと思います。

 今日は、「結婚」について自分なりの考えを述べさせて頂きます。皆様は結婚されていますか?和多志は未だしていません。なので、結婚をしたことがない和多志が結婚について語る資格はないという大前提の元で、その中でも結婚について思うところをお伝えできたらと思います。

 和多志が幼い頃、両親がよく口喧嘩していたことが記憶に残っています。しかし、大きくなってから、両親にそのことを聞くと、記憶にございません、という様子でした。また、幼い頃にその口喧嘩を目の前に「2人は何で結婚したの?離婚しない理由は何なの?」という質問をしてしまった記憶があります。これは母親に対して、どうして父親と一緒に居るのか?そんな意味合いで言ったと記憶しています。この言葉を聞いて両親がどのように思ったのか、わかりません。また、これまで生きて来られたのも、両親のおかげ様というのは、紛れもない事実なのです。今思うと、こうして口喧嘩しながらも、ここまで一緒に育ててくれて有難うと思います。2人で一緒に居てくれるおかげで、ある意味安心できます。両親がいなければ自分はここにいないし、両親の両親がいなければ自分はここにいないということを考えると奇跡の連続だと思います。それを考えると、先祖代々繋いで来てくれた命を次に繋いでいきたいという想いはあります。

 結婚という枠や檻に囚われて、結婚したから自分の人生を諦めたり、やりたいことややろうとしていることを諦めてしまうのは、違うのではないか、と考えてしまいます。男女でこの辺の考えは違うのかもしれませんが、相手の方にも結婚を理由にやりたいことを諦めて欲しくないですし、それを言い訳にしないで欲しいと思います。和多志もお相手の方も、外見も内面も環境や状況によって変化していくものだと思います。そんな2人が常に一心同体のように家庭で一緒に居られるのは本当に凄いことだと思います。そのように自分には見えているだけで、それぞれが2人にとって最適な距離感か関係性を築いているのかもしれません。この考えを既婚者に言ったら、あなたは結婚に向いてないよと言われました。色々な考えがありますよね。

 ある時、家族は修行だと本氣で考えていたことがあります。自分の魂が最も成長できる環境を選んできたと思っていました。今もこの考えに大きな変化はありません。性格や価値観的には、合うとは言えない場合もありますが、家族だから大切にしようと思う氣持ちがあると思います。そう考えた時に、お相手がどんな人でも結局は自分次第だから、同じだと思っていたこともあります。しかし、他人は変えることは出来ません。結婚して家族となったとしても、元々は言ってしまうと他人な訳なので、相手を変えることは出来ないと思った方が良い氣がしています。これから家族になる人を自分で選べる状況にいる自分にとっては、両親から生まれてきたこととは違って、必然性がないのです。これから、誰と一緒になるのか、正直言ってしまうと、その人でなきゃいけない理由が見出せないのです。既に長い間の月日を共にして来た相手というのであれば、情があるので、一緒になるのはある氣がしています。本氣で誰かを好きになったことがないので、こんなことを言っているのかもしれません。

 また、ある時は、男女はお友達であれば一生のお付き合いなのに、一度でも交際を経ることで、その後お友達ですら居られない関係(お別れした後は一切連絡取れない、取りにくい)にも寂しさを感じています。それならば、誰ともお付き合いしない方が良いのではないだろうか?また、同性の友情は一生で異性とは仮に友情を築いたとしても交際というより深く知ろうとすると結婚か別れの選択をしなければならないこととなります。

 是非、皆様のお考えも聞かせて下さい。

彌榮ー

 

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