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思考を耕すために
おはようございます。昨日も素敵な出会いがありました。有難うございます。明日は、臨時休業となります。お氣をつけて下さい。
皆様は普段、字を書くことがありますか?スマホが登場してから、書く機会が少なくなっていざ書こうとした時に、漢字が書けないなんてことないですか?
和多志は、字や文字を書くことが好きです。5年前くらいから、意識して手で書くということをして来ました。手帳も手書きです。ノートも手書きです。自分の人生の中で一番高い買い物だと思われるボールペンを買ったことがきっかけだったかもしれません。どうやら、人間にはお値段以上の価値をつけようと、買った後に有効活用する性質があるように思います。芯を交換して、一生使うと思います。
「大きな世界の中にいるちっぽけな自分という存在」というように、自分をまるで物質的に捉えていると、他人や社会からどう見られているのか、という視点に目がいくと思います。もちろん、他の個々人を尊重せずして、生きていくことは出来ないので、大切な視点だと思います。しかし、この客観的な世界の圧力が強くなり過ぎてしまって、本来の自分を見つけられない人も多いのではないでしょうか?主観的な世界の見方や感覚を取り戻す為に、「ノートを書く」ことで、自分の思考を耕すという作業をすることは、非常にお勧めです。巷では、ノート術などの本がよく出ていますが、効率化の為のそれを書かれた本も多いと思いますが、本来の意味はここにあると思います。
和多志も、この客観的な世界の圧力を受けて来たかもしれません。例えが違うかもしれませんが、ご容赦下さい。昔から割と良い子でした。また、高校になると大學受験の指定校推薦を得る為に、高校で成績一番を取ると決めて、実現出来ました。青山學院大學に無事入學することが出来たのです。当時の自分からしたら、憧れのまた憧れというように、入れるほどの學力はないと思っていました。しかし、そんな憧れも入ったとたんに、無力感を感じ、燃え尽き症候群のような状態でした。おそらく、どこかで両親の仲良くなる為、笑顔の為に頑張っていたんだと氣がつきました。世間的に凄いとされている大學に入ることで、両親が喜ぶと考えいたのです。(これも、周りにどう見られるか、という視点です。)また、摂食障害になったのも、根本的には周りからより良く見られたいという願望があったのです。
周りからどうみられているか?という客観的な視点とは対照的に、目の前の世界には、和多志たちの心が映し出されています。それは、何かを見ると、自分の心には感情が芽生えます。つまり、 「ノートを書く」=「頭の中を可視化する」ことで、その一瞬一瞬の心の状態を可視化する(ピン留めする/付箋を入れる)ことができるのです。自分がそのように思ったことには、必ず意味があります。それは他人に理解されることかは、わかりませんが、自分の中では必ず答えがあります。我々は、今ここにしか生きることが出来ないので、そこで抱いた自分自身の心を可視化してメモしておくことは、非常に重要な意味を持つと思います。ノートにわざわざ書かなくても、それでも自分が覚えていたこと、記憶に残っている心(の声)がより重要という見方もありますが、どんな小さな声にも目を向けるという視点でメモすることは、大切だと思います。
和多志がどう思ったか、どう感じたか、それに対して、蓋をしたり、流されたり、目を向けさせない世の中や教育や慣習が強いような氣がしています。それは、世界と人間の認識の仕方を、意図的に物質的で客観的な、周りからどう見られているのか、という点に意識を向けられている氣がしています。しかし、そうではなく、主観的な視点を取り戻す必要があると思います。個人の自由ですが、和多志は自分の人生を通じて、客観的視点から主観的視点に切り替えて、とても積極的でポジティブな生き方が出来ていると感じていて楽しいです。まず、その第一歩として、どんな心の声も、ノートに書いて、それがどういう経緯でそのように感じたのか、振り返ることで、自己対話が進む氣がします。
また、そのノートを通じて、自分の心と向き合い、「自分なりの考えや仮説を出すこと、(一旦答えを出す)」ことは重要に思います。また、この答えを盲信や正解とするのではなく、仮説に対して、自分の人生を通じて検証し、より正確なものを見出していくのだと思います。自分の中での答えを一旦出すという考え方は、間違いをNGとするこの社会において、慣れるまで違和感があるかもしれません。人生は数学の数式のように、このようにやれば絶対にうまくいくという法則はないように思います。うまくいくとは、何か?それは、どんなに批判を浴びようとも、自分の心の声に従って、判断して行動することのように思います。そうしていると後悔することはないと思います。もちろん、人間なので、反省することはあると思います。それは次に生かすための糧となるので必要な経験だと思います。また、それと真剣に向き合うことで、自分に対する自信を取り戻すことができるかもしれません。
和多志は2021年3月に人生で初めて「瞑想」しました。それまでの人生はある意味迷走していたかもしれません。ただ、無駄な経験は何一つとしてない、それらは必ず振り返った時に必ず、繋がると信じて歩みを止めずにひたすら行動して来ました。この瞑想との出会いは、自分の人生において非常に意味のあるものでした。
纏まり切らず申し訳ございません。いつもお読み頂き有難うございます。
彌榮ー
立ち上がる大和魂
おはようございます。昨日は有名YouTuberのヒカルさんが「財務省解体デモ」という政治ネタを取り上げた動画を拝見させて頂きました。それをきっかけに、青汁王子(三崎さん)も翌日それに関する動画をあげたようです。影響力のある方が、メディアが報じない内容を取り上げることで、あまり関心のない方々でも、考え直すきっかけになるのは、本当に有り難いことです。ヒカルさんは、ご自身の会社で製品を作ったりしているので、影響はなかったようですが、青汁王子は、この動画配信の翌日に取引先であった大手企業から、突然契約解除を言い渡され売上1億円分の契約を失ったようです。また、この事実に疑問を持って、社会や世の中にについて考える方が増えるという点において、この2人が行った言動は非常に価値のあることに思います。また、いつ動画が削除されるのかは、わかりませんが。また、彼らに対してのどのような制裁が為されるのか、わかりませんが、1人でもアクションを起こせば、それに乗っかってアクションを起こす人たちは多い氣がしています。日本の大和魂を持った我々なら。
https://youtu.be/noYdEHx-lJU?si=k-cREsY2as2Bn3iy
(ヒカルさんの動画 令和の虎の林さんとの対談形式)
和多志も以前まで、政治には全く関心がなかったです。どこかで、諦めていました。投票したところで、どこの誰になったって、何も変わらないと思っていました。ところが、意外にも、周りで話してみると、社会システムに対しての疑問や問題意識を持っている人がいかにも多いということを感じました。また、普段の生活や生きている中で感じる様々な感情があると思います。それらは、この社会システムを変えていくことで、解決されていく問題が多いのではないのか?そう思うようになりました。昔は、どこかで、ありのままを受け入れてしまっていました。しかし、それは、良い面もありますが、悪い面もある氣がしています。
例えば、お医者さんに行って、自分の体調や調子や病氣の原因が、遺伝などの自分が生まれた以前の問題であった場合どうだろうか?それは、もうどうしようもないことだと諦めることになる人が多いと思います。「それは生まれつき与えられているんだ、という言い方は宗教や政治指導者にとって、人々を盲従させる都合の良い道具になる危険性がある」(ロック、人間知性論)という言葉を残していますが、まさにその通りに思います。和多志は、医療に対して、「原因は遺伝である」と判断することに、非常に疑問を感じていました。それは、医者というプロの立場で、お手上げしている状況ではないか。とずっと思っていました。それは、ある意味で、我々に対して諦めさせるようなものだと思います。少なくとも、お医者さんの立場で、原因は遺伝だと諦めないで欲しいと思います。また、この医療の例だけでなく、生まれた時点で、既に存在していたことや、ものに対して疑問や問題意識を抱かない人が多いと思います。それは、ある意味で、教育で洗脳されて来たのだと思います。この洗脳や思い込み、誤った認識を変えていく過程が必要に思います。もちろん、未だ洗脳されていない若い子どもたちには、誤った考え方を入れないようにしていきたいです。全てはその子どもが、どのように認識したかに依拠していると思います。
彌榮ー
自由への教育
本日は臨時休業を頂いて、外出予定でしたが、なくなったので、通常通り営業しております。先ほど、和多志に「チ ー地球の運動についてー」というアニメを観るきっかけを頂いたお客様がご来店されました。その方は、旦那様が理系で天文について語り出すと止まらない方のようです。和多志は文系で天文についてあまり詳しくありませんが、大変ハマりました。このアニメを通じて、文字や言葉の持つ可能性及び危険性について氣づかせて頂きました。有難うございます。
現在、教育と哲學に興味を持っています。ある尊敬する整体の先生がきっかけで、ルドルフ・シュタイナーさんのことを数年前に知り、氣になって5冊ほど本を読ませて頂きました。ところが、抽象概念が多くて読んだつもりでまったく頭の中には入っていない、という印象です。もう少し自分自身の器を広げた後に再度挑戦してみようと思います。割と有名になって来たので、ご存知の方も多いかもしれませんが、ご存知でしょうか?
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、オーストリア生まれの哲學者、教育者、神秘思想家です。科學と神秘性の統合を目指し、人智學を確立しました。また、シュタイナー教育を考案し、世界中に広めました。芸術、医療、農業など幅広く活動した方です。
和多志は、まだまだ皆様に語れるほど、深く理解できておりません。まずは、シュタイナー教育のことを知ってから、彼の哲學を理解する助けになれば、良いと思っています。
シュタイナーは教育のことを「自由への教育」と表現しています。自由を得るための教育。まさに、その通りな氣がしてなりません。また、この自由についても具体的に定義しています。シュタイナーの言う自由とは、”want to(やりたいこと) = have to(やらなければならないこと)が一致した所に生まれるもの”だと表現しています。和多志も自分自身が何をしたいのか?わからない時期もありました。この問題に直面している人がこの國には多いと思います。それは、社会や世間や周りからの要請やルールやしなければならないことが、多過ぎるからだと思っています。ただ、これはシュタイナーが言っているhave toの意味とは異なります。 それは、氏命や天命を見つけることであり、自分で見つけた課題に向き合うことだと、言っています。和多志も、これまで公務員試験に落ちたり、会社をクビ(退職勧奨)になったこともあります。ただ、振り返って思うのは、そのどれも全ての経験が今の自分の道を正す為にあった経験だと思えます。また、本当に多くの人に恵まれていると感じています。これらの全てに経験を通して、自分の氏命や天命と思われるものに出会えた氣がします。また、これはシュタイナーが言っているwant to = have toが一致している所に生まれたもののような氣がします。
Thinking 思考ー頭
Feeling 感覚、感情ー心
Willing 意志ー手足
これらの3つの違いを理解しながら、教えることが大事とされています。また、0-7歳の時期に「善」=意志の発達をする時期だと考えられていて、大人の模倣をします。また、7-14歳の時期に「美」=感情の発達をする時期だと考えられていて、誰の真似をするのか自分で選ぶようになるようです。
ルドルフ・シュタイナー「教育者は世界秩序の代表者」という名言がありますが、これは、7-14歳に子どもが尊敬できる人に出会うか、という視点が非常に重要なことから、このように表現されたようです。また、後のその尊敬する人及び秩序から離れることの重要性も説明しています。※「守破離(しゅはり)」とは、茶道や武道などの修行の過程や成長段階を表す言葉で、基本を学び、発展させ、独自の境地を目指すことを意味します。
和多志が教育に興味を持った理由は、幼少期に教えられたことは、潜在意識の中にすーっと入りやすく、11歳頃から潜在意識と顕在意識の間に壁ができるということ(これも尊敬する整体の先生から學んだこと)を、自分自身の経験を通じて學んだことがきっかけでした。自分は摂食障害というきっかけがあったお陰で、自分自身が変わるきっかけを頂けました。ただ、そのように半ば強制的に自分と向き合うきっかけを頂けなかったら、そこに向き合っていなかった可能性が高いです。
例えば、健康な人は、健康に対して意識しない方が多いと思います。実際に自分が健康を害して初めて、本当の意味での健康の有り難みがわかるのだと思います。それによって、もう同じような過ちを繰り返さないように、思考や意識が変わり、実際の日々の行動が変わってくるのだと思います。あるいは、世間的に、癌や病氣で亡くなっていると言う情報を受けて、それに対して恐れて意識する方もいるかもしれません。和多志は摂食障害克服に約8年という時間を要しました。その中で、本当に数えきれないほどの経験を積むことが出来ました。ただ、日本という國全体で考えたら、最初からそこと向き合わずに、生きていける人が増えたら、もっと平和な世の中になるのではないか、と思いました。小学生、中学生、高校生という若さで自分の命を絶つ人が増えているようですが、信じられないです。ただ、見方を変えると、その若さで人生について本氣で考えているのかもしれません。もしくは、誤った世界の認識によって絶望し、楽になりたくて死んでしまうのかもしれません。これらは、世界に対しての認識を改めていくことで、子どもに限らず大人も自由を獲得して、充実した人生を生きていけると信じています。そんな思いを抱いていたら、勝手に教育に興味を持っていました。自分にできることは何か考えていました。
歯切れが悪いかもしれませんが、ここまでにします。今日もお読み頂き有難うございます。
彌榮ー
自分の枠や器を広げる
おはようございます。昨日は定休日でしたので、あるクリスチャン5年の方とお話する機会がございました。凄い饒舌で、何かお話する度に聖書での例え話や解釈を説明されていました。信仰が強いのでしょうか?何の為に宗教を行うのか?それは「自分自身がより善く生きられる為」だと和多志は思います。仮にその宗教を数年學び実践して、自分自身が善く生きれていると自信を持って言えないのならば、それは、単にあなたの世界や視界を狭めてしまっているだけのように思います。昨日お話した方は20代半ばの方でした。人を変えることは、難しいので、変えるつもりはございませんが、その若さで、これが絶対的なものだと決めつけてしまっているような氣がして、親心のように心配になりました。
今日は、言葉についてです。皆様は「言葉」をどのように捉えていますか? 幼い頃に、自己表現やコミュニケーションの道具などと教わった記憶があるかもしれません。和多志もこれまで、そのように捉えていた嫌いはございます。このように、自己表現の為の道具としての認識によって、自分のことを決めつけてしまい、自分が変化するという視点に欠けてしまう恐れが生まれて来てしまう氣がします。「和多志はこうだ」という檻から出ることが出来ない。頑固な態度や姿勢を生んでしまいかねないです。
ところが、ある本の中で「言葉の本質は、自己表現やコミュニケーションの道具ではない。それは自分の中に他者を受け入れること」という言葉に非常に感銘を受けて、まさにその通りではないか。と思いました。また、言葉をこのように定義・認識することによって、生き方までもが変わってくる可能性だってあり得ると思います。もちろん、ポジティブな意味で変化する可能性があると思います。
本来、言葉は美しいもの。自由にしてくれるもの。だと思います。しかし一方で、意識をその檻の内部に閉じ込めてしまうもの。でもあると思います。和多志は日本語しか話せませんが、最近では2−3ヶ国語話せる方も増えているように思います。全てのことに共通して言えることかもしれませんが、何か1つしか知らないということは、比較対象がなく、余計にその言葉の檻の中に閉じ込められてしまう可能性が高い氣がしています。なので、和多志は、日本語という母語を使用することによって、どういった思考や傾向になりやすい、またどのような言葉の檻に閉じ込められているのか、認識出来ていない、という風に言うことができると思います。
もちろん、言葉が使えることで、物事の差異を認識できるようになったことは大きいと思います。日本語では蝶と蛾を区別して表現しますが、他の言語ではまとめて表現する言語もあるだろうし、蝶々の色まで付けてそれにバラバラの名前をつける言語もあるだろうと思います。言葉を持つことで、差異を豊かにしていくことができるのだと思います。今まで見えなかった違いが見えるようになってくるという、「無知の知」を自覚して、もっともっと色々な景色が見たくなるかもしれません。ただ、それを認識することで、どこまで行っても、自分が全てを知っているということなんてあり得ないという智慧が生まれてくる氣がします。
和多志は、幼い頃から、「どんな人の考えや意見もまず受け入れよう」と意識して参りました。その為、色々なネットワークビジネスや投資話や詐欺などの経験をさせて頂く機会は多く頂けました。別にネットワークビジネスじゃなくても良かったのかもしれません。笑 ただ、そのようなことを経験しても、自分のスタンスは変えませんでした。そんな時にある尊敬する整体の先生から、「人が成長していくためには、”自分の考えの枠の外の情報”に触れてそれを取り込んでいくこと」と聞いて、なんだか自分がこれまで行ってきたことが、肯定されたような氣がしました。「構築・脱構築」と言うようです。これは、”自分では考え出せないものの中に、答え、解決策がある”という非常に大事な氣づきを頂きました。まさに、その通りだと思います。自分の中で考えられていたら、その問題は問題ではないはずです。しかし、それが、問題となっているということは、他の考えや新しい考えに触れる必要があると思います。和多志は、これまで、あまり誰かに相談するのが得意ではありませんでしたが、(自分の今の状況と同じ状況を体験して、自分と全く同じ経験をして来た人はいないから、意味がないのかもしれない)もしかしたら、相談することの意味は、自分では考え出せないものの見方や考え方や認識を得るためなのかもしれません。(相談相手は、自分とは全く同じではない経験をして来たからこそ、違った見方や考え方や視点を持つことができたのだと) ただ、言葉は常に不完全なものであるという理解とともに、言葉に触れる必要性があると思います。それは時ととして思い込みを生む可能性があると思います。使い方によっては「諸刃の剣」になると思いますが、今、和多志はまさに言葉の魅力に魅了されています。
お読み頂いて有難うございます。今日も感謝と歓喜に満ちた心でお過ごし下さい。怒らず、怒らず、悲しまず
彌榮ー
原因は結果であり、結果もまた原因である?
おはようございます。本日は定休日です。
昨日、書かせて頂いた「笑顔だから幸せになる」「幸せだから笑顔になる」皆さんはどちらだと思いますか?和多志はこの疑問をだいぶ前から、心の中で抱いていました。ある時から、確信を持てたような氣がしています。また、最近これに似たもので、「声が出すから元氣になる」「元氣だから声が出る」を考えるようになりました。というのも、今お世話になっている70代女性のKさんや和多志の親の友人Oさん、皆さん年齢よりもだいぶ若々しく見えて、しかもエネルギッシュなのです。中身は変われど、自分は前者の捉え方をするようになりました。一見、結果のように捉えられる事柄も、ある意味では原因にも成りうるし、またその逆にも成りうるのかもしれません。
ある本を読んだ方から聞いたお話があります。それは、自分の子どもが學校で悪さをしたときには、何かそのようにしてしまった事情があるのでは?とそこについてのより深い原因を探ろうとする傾向があるように思います。ところが、これが、飼っているにゃんこやわんこであると、おしっこを床にしたり、洋服を歯でちぎったり悪さすることを、結果として捉えて叱ったり、躾して正そうとするという傾向があるのでは?という問題提起でした。確かに、ペットの場合にも、そのように行動したのには、さらに原因があると考えられます。この叱るということをサイレンを消すというような表現をされていました。何か問題が起きた時に、そのサイレンを消しただけでは、根本原因は解決されず、また違った形でサイレンを出し続けるような氣がします。それは、サイレンを消すのではなく、その元となっている根本的な問題を解決する必要があります。それは、まるで病氣になったときに、肉体的な症状にだけ目を向けて、それを治療して肉体的に治癒させただけでは、サイレンを消しただけであって、根本解決にはなっていない。心を治癒する必要がある。そんなような氣がします。
今日は短めですが、こちらで失礼します。出かけて来ます。
彌榮ー