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2025-02-25 11:39:00

原因は結果であり、結果もまた原因である?

おはようございます。本日は定休日です。

 昨日、書かせて頂いた「笑顔だから幸せになる」「幸せだから笑顔になる」皆さんはどちらだと思いますか?和多志はこの疑問をだいぶ前から、心の中で抱いていました。ある時から、確信を持てたような氣がしています。また、最近これに似たもので、「声が出すから元氣になる」「元氣だから声が出る」を考えるようになりました。というのも、今お世話になっている70代女性のKさんや和多志の親の友人Oさん、皆さん年齢よりもだいぶ若々しく見えて、しかもエネルギッシュなのです。中身は変われど、自分は前者の捉え方をするようになりました。一見、結果のように捉えられる事柄も、ある意味では原因にも成りうるし、またその逆にも成りうるのかもしれません。

 ある本を読んだ方から聞いたお話があります。それは、自分の子どもが學校で悪さをしたときには、何かそのようにしてしまった事情があるのでは?とそこについてのより深い原因を探ろうとする傾向があるように思います。ところが、これが、飼っているにゃんこやわんこであると、おしっこを床にしたり、洋服を歯でちぎったり悪さすることを、結果として捉えて叱ったり、躾して正そうとするという傾向があるのでは?という問題提起でした。確かに、ペットの場合にも、そのように行動したのには、さらに原因があると考えられます。この叱るということをサイレンを消すというような表現をされていました。何か問題が起きた時に、そのサイレンを消しただけでは、根本原因は解決されず、また違った形でサイレンを出し続けるような氣がします。それは、サイレンを消すのではなく、その元となっている根本的な問題を解決する必要があります。それは、まるで病氣になったときに、肉体的な症状にだけ目を向けて、それを治療して肉体的に治癒させただけでは、サイレンを消しただけであって、根本解決にはなっていない。心を治癒する必要がある。そんなような氣がします。

今日は短めですが、こちらで失礼します。出かけて来ます。

彌榮ー

 

 

2025-02-24 11:39:00

積極性を取り戻す

 おはようございます。本日は祝日の為、17時までの営業となります。いつもお読み頂いて、有難うございます。毎週土曜日の深夜に放送される「チ ー地球の運動についてー」の最新話を拝見させて頂きました。今回もとても面白い内容でした。 

 特に印象的だった内容は、異端審問官として天文學の地動説を研究する者たちを異端者として処刑してきたノヴァクさんが、自分の行なってきた行動(殺人)について、自省・後悔するという場面です。自分が信じてきたものが、間違えだったと氣づいた時、人によって色々な反応があると思います。受け入れようとしないで、無視したり。ノヴァクさんは、その過ちを素直に反省して、後悔している様子に感じられました。それは、娘のヨレンタさんが亡くなってしまったことも大きな原因の1つに思います。

 「何かを信じる」ということは、それだけパワーを頂ける、強くなれるものだと思います。

「信念は、人を生かす力である。」- (トマス・カーライル)、

「信念を持たない者は、どんなに速く走っても、道を見失ってしまう。」- (ゴードン・B・ヒンクリー)

「信念と勇気を持って、自分の人生を切り開いていけ。」- (ヘレン・ケラー)

「信念があるからこそ、人は成長できる。」-( アリストテレス)

「信念と勇気を持って挑戦しなければ、夢は実現しない。」- (ジョン・F・ケネディ)名言もございます。(リンカーンとジョン・F・ケネディ大統領は、アメリカに金融資本家たちの支配を受けない政府紙幣を発行する大統領令を出した後に射殺されたとされています。)信念を持つことに対する重要性は、歴史に名を残した偉人たちが多く言っています。

 しかし、「何を信じるか」という点は、非常に重要だと思います。誤った現状認識や知識や智慧で、誤った信念を持ってしまうと、間違った行動を犯してしまい、誰かに迷惑を掛けてしまう可能性があるからです。今回の教訓や著者が伝えたい内容は「無知の知」であったように感じました。「自分が何も知らない、ということを知ること」です。この現状認識をしていないと、現状認識に歪みが生じて、正しい認知ができなくなってしまう氣がしています。

 また、「何を信じるか」をどのようにして見つけていくのか?それは色々なやり方があると思います。和多志の場合は、思考のストッパーを外して、どんなこともまずは実行するというスタンスで行って来ました。思い立ったら即行動。割と行動力には自信があります。それ以外はないかもしれませんが笑。そんな自分も受け入れています。

 しかし、世の中には、やたらルールと言われるものであったり、こうしなければならないなどがございます。信号機は、歩行者の安全性を守る為に作られたのに、車が全く来ていない、安全確認できる状態で、赤だからという理由だけで止まる意味がわかりません。また、電車内でスマホで電話してはいけない、とされている理由がわかりません。電車内で2人で会話することは、一般的に許されているのに、なぜかスマホで通話となるとお控え下さいと決められています。(変なこと言っていたら申し訳ございません。) 自分だけ変わった見方をしている可能性もあるかもしれませんが、この國には、そのような理解し難いルールや決まりことが多過ぎる氣がしています。ルールに破った人には、経済的または、肉体的、時間的な罰が与えられます。

 それ故、行動したらこうなっちゃうから、辞めておこう、と、やりたいと少しでも思ったこと、思いついたことを、頭の中だけで自己解決して、行動せずに辞めてしまう、諦めてしまう方も多いと思います。和多志はこれは、そういった意図的に行動させないように、仕組まれているような氣がしてなりません。その枠をぶっ壊して、破壊して行動を繰り返す先に、少しずつ自分の信念が確立されていくのだと思います。その中でも、新しい考えや人や環境との出会い、というのは大切に思います。その自分には無い考え方を否定せずに、賛同まで行かなくても理解しようとして行きます。また、世界の中にいるちっぽけな自分という誤った現状認識を改めることも、自分自身を積極化させることに役立つと思います。自分の直感に従ってあらゆる行動を繰り返し、自分にも相手にも正直で素直であれば、きっと道は拓かれると思います。これらの決断や選択と実行と自省を繰り返して行く先に、自信や信念に繋がる氣づきを得られるような氣がしています。

 和多志も積極的かどうか、わかりません。ただ、消極的だと思っている方や一歩踏み出せずにもやもやしている人は、口癖や発する言葉を変える意識をしても良いと思います。自分がそう思っていないのに、言えないよーという人が多いと思います。和多志も嘘がつけないタイプでしたので、そのお氣持ちが本当によくわかります。ここで、質問です。あなたはどっちだと思いますか?「笑顔で居るから幸せになる」「幸せだから笑顔になる」。笑顔と幸せを、原因と結果のどちらとして捉えるのか?という問題です。問題というより正解はありません。ただ、自分は、ある時から、「笑顔で居るから幸せになる」と本氣で思うようになってから、正しく認識できるようになった氣がします。しかし、悲しいかな、自分が思ったようにしかならないのが現実だと思います。それなら、自分で「笑顔で居るから幸せになる」と決めて思った方が良く無いでしょうか?

彌榮ー

2025-02-23 11:39:00

親子の絆

 本日は臨時休業となります。中村天風研究会の勉強会に初めて参加させて頂きます。その内容も後日こちらで共有させて頂けたらと思います。

 昨日は、ご来店頂いた母親のテニス仲間のOさんと1時間以上お話させて頂きました。自分が引き止めて延長させて頂きました。途中、一瞬雪が降りました。東京の初雪でした。Oさんは、母親と一緒に最初にご来店頂いたのですが、その時に和多志がぽろっと言った母についての発言の本意を確かめるという名目でご来店されました。母親のことをそれだけ思って頂いている方なんだと嬉しく思いました。

 母親の友人から見た母親ってどんな人間に写っているんだろう?というのは、非常に氣になる所でした。会話の中で、Oさんからそれについての言及がありました。おそらく、初めての経験でした。そこで、言っていたのは「人に恵まれている・真面目・人に尽くす・明るく元氣」という内容だったと記憶しています。和多志は母親に対して「真面目で人に尽くす、何でも話せる、どんなことを言っても受け入れてもらえる、」という印象があり、時々、自分を犠牲にしたり、我慢し過ぎているのではないか?と心配になる時があります。もちろん、人によって、人の印象というのは大きく異なるものだと思います。ただ、Oさんと1時間以上話して、非常に信頼できる方という印象を抱かせて頂きました。今後も母親のことをよろしくお願い致しますとお伝えしたいです。

 また、自分は「人に恵まれている、真面目で人の為にやり過ぎてしまうことがある、嘘つかないし、嘘つけない」という印象があります。自分で自分のことを真面目というのは、笑われるかもしれませんが、摂食障害になるのは、真面目な人以外ならないと思っています。(もし、自称不真面目で摂食障害の方がいたら、大変申し訳ございません。どうか氣を悪くしないで下さい。) また、人のためにやり過ぎてしまう、ことも実体験として自分で認識している部分です。お金の話がわかりやすいと思います。ある特定の人にお金を貸した話です。これは、話すと本や映画を作れてしまう位、濃厚な内容なので、氣になる方は直接聞いて下さい。

 これらの自分自身の認識の中に、矢張り母親が持っている要素や氣質を持っているということに少し驚きました。というのも、家族は修行だとずっと考えていました。それは、肉体的な特徴は似ることはあっても、魂的にはお互いが最も成長できる環境を選んできていると考えいた為です。氣質、性質、性格と魂についての関係性は未だ勉強中ですが、その自分の中に今存在している大事な要素(例えば、人に恵まれていること、嘘をつかないこと、騙さないこと、)は、母親とお腹の中にいた頃から長い間一緒の時間を過ごすことで、引き継がせて頂いたものなのかもしれない、という大変貴重な氣づきを頂きました。全ては、Oさんの思いやり、親切心のお陰です。すぐに、母親に対して、LINEにて情報共有とお礼を伝えました。「産んでくれて、有難うございます。人に騙されることはあっても、騙すことはこれまでもこれからも絶対にない人に育てて頂いて有難うございます。もっと本来の自分、本当の自分の氣持ちを大切に楽しい日々を送って下さい。遠くから見守っています。」

彌榮ー

2025-02-22 11:39:00

宗教と信念

 「宗教」について、皆様はどのお考えでしょうか?また、我々が宗教に入信したり、洗礼を受けるのは、どうして、どのようなタイミングなのでしょうか?

 日本だと、皆様も1度は創価學会のお誘いを受けたことがあるのではないでしょうか?やっている方を否定も肯定もしません。しかし、「選挙前になると思い出したかのように、急に連絡して来るのだけは辞めて下さい」笑

それに対して、相手はどう思うでしょうか?上手い例えが思いつきませんが、「お給料日になったから、人にお金を借りたり、奢ってもらったり」「出世や有名になったから、急に連絡してきたり」「ネットワークビジネスの勧誘の為に人を誘う」のと同類な氣がしています。全ては、相手がどのように捉えるか、その視点を欠いている氣がしてなりません。これは、完全に和多志の主観です。所属されている方を、否定しているつもりはございませんし、これは、和多志に御縁の合った方々に対して抱いた率直な感想です。

 和多志は、高校生の時に、小學生の時からの友人に誘われて碑文谷にある会館に行ったことを覚えています。お経を上げました。しかし、入信はしませんでした。それは、やる意味があまりわからなかったです。もちろん、やってみないと何もわからない、と思いますが、やりたいとも思えませんでした。この決断は今でも後悔していません。

 宗教に限らず、ある組織や企業にお金を投じるということは、そのお金が最終的に誰のもとに行くのか?そこも考える必要があると思っています。というのも、自分の中で、日本の宗教法人は企業との癒着やお金の繋がりが多い氣がしています。「統一教会は政治を束ねて、創価学会は企業を束ねる」という考えもあります。宗教や信念に働きかけて、洗脳して、都合の良いように、動かされているだけな氣がしてなりません。もちろん、教えだけ見れば、素敵な内容も多いんだと思います。それなら、お金を払って、仲間を募ったり、増やしたりすることに、何の意味があるのでしょうか?単純に、考えだけなら本や人からの話を聞いて、自分で學ぶだけで良くないでしょうか?どうも、「宗教内で評価されること=宗教法人の出資者や大元の狙いや都合の良いことをすること」という氣がしてなりません。これは、持論ですが、「宗教組織に属すること≠宗教を學ぶ」で、學ぶ以外の余計なものが多過ぎると思います。

 和多志は學生時代に摂食障害でした。当時、自分の中に確固たる信念(それがどこかの宗教かわかりませんが)があれば、苦しまずに済んだかもしれません。しかし、今では貴重な経験をさせて頂けたと感謝しています。今も、信念と言えるものがあるのか、わかりませんが、自分ではあると思っていますが、自分の人生における体験や経験を通じて自分なりの人生哲學が持てている氣がしています。この考えと、著名な偉人や本で出会った考えと似ていることが非常に多くて驚いている日々です。これは、人それぞれの好みもあるかもしれませんが、自分は「文字は奇跡だ」と感じていますが、奇跡だと感じられる為には条件があるような氣がします。宗教や哲學的な教えを學んだだけで、それを自分の人生のすぐに取り入れて実行できる人が、どれほどいるでしょうか?少なくとも和多志は、読んだだけじゃ変わらないと思っていました。自分の肉体や体を使って経験したり体験したこと、それに自分の感情が加わり、それらを振り返った時に、色々な出来事を集約して自分の中での生きた知恵として、心に刻む(帰納法)ことで、少しずつ自分の中での人生哲學を築いている氣がします。しかし、常に意識していることは、自分の経験則や五感で感じたり認識したりできることを過信しすぎずに、常に断定せずに「そうかもしれない」(そうではない可能性も含む)と捉えるようにしています。

 最近、思うことは、「信念とは別に宗教や哲學に限ったことではない。常に自分の描いた高い理想やビジョンやこう在りたいという志も信念に成り得る」と?

 心にどこかぽっかり隙間が空いている状況のときであったり、社会の中に存在するちっぽけな自分という認識を抱いている時に、宗教に入りやすいのかもしれません。

 是非、皆様のことも教えて下さい。和多志は特定の宗教には属していません。何かを盲信することで、視野が狭くなる、偏った見方や捉え方をしてしまう、と考えるからです。心のバランス大事ですね

彌榮ー

 

 

※毎日、ブログ書かれている方々が本当に凄いと思います。書けるだけ、できるだけ、続けて書いて行こうと思います。ネタ切れになる前に皆さんの声を聞かせて下さい。コメント蘭がないので、ご意見やご感想はメールにてお願い致します。iyasakadou369@gmail.com

2025-02-21 11:39:00

文字は、まるで奇跡

 少し前に、お客様から旦那様は今、漫画やアニメの「チ ー地球の運動についてー」にハマっている、というお話を伺いました。

そんな中、普段あまりテレビやネットテレビなど観ないのですが、たまたまabemaを観ていたら、ありました。おそらく、以前にも見覚えがありましたが、改めて思い出させて頂いたようでした。観てすぐにハマり、全話見る為にabema有料会員となり、最新話まで一氣見をしました。現在も最新話が出る度に観ています。

 このアニメをどのように観ているか?というお話だけでも何時間も議論が尽きないような内容でした。特に、物語の中にちょくちょく出て来る「名言」の数といえば、たくさんあります。日本中や世界中で大ブームとなる予感がしています。和多志が知るのが遅くて既にブームとなっているのかもしれませんが。もし、そうでなかったとしたら、それを知られたくない、知られたら困ると思う方々が居るからだと思います。知的好奇心や感動というピュアな氣持ちに突き動かされて、真理の追求を命懸けで行なっていた先人たちが存在していたということを。

 自分が世の中に感じている疑問や認識と、かっこいい、美しい、と感じられるポイントが似ているような氣がして、この原作を書いた当時20代の魚登さんの頭や心の中を覗いてみたくなりました。

 

 「文字が読めるってどんな感じなんですか?みんな平然と読んでいるので。」ー読み書きできないが話せる人に、この質問をされたヨレンタさんが返した言葉:

「文字は、まるで奇跡ですよ。本当に文字は凄いんです。あれが使えると、時間と場所を超越できる。200年前の情報に涙が流れることも、1000年前の噂話で笑うこともある。そんなの、信じられますか?和多志たちの人生は、どうしようもなくこの時代に閉じ込められている。だけど、文字を読むときだけは、かつていた偉人たちが、和多志に向かって口を開いてくれる。その一瞬、この時代から抜け出せる。文字になった思考は、この世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなのまるで奇跡じゃないですか」

 これ以上の、文字を読み書きしたくなるような伝え方や表現はあるだろうか、と思う内容です。

 

 文字や言葉という抽象概念(世界や社会など客観的な概念)が非常に強い力を持って来た昨今だと感じております。ピラミッド型の社会構造の中に我々の自我が放り込まれていて、その中で競争しなければならない、と勘違いさせられている。そんなイメージを作っている、感じさせてしまっているものも、文字ではあると思っています。この認識は、ある一部の方々によって、意図的に植え付けららえているものだと感じています。

 しかし、文字や言葉を通じて、かつての偉人たちとも、一方的に空想的な世界を共有することができる、これを奇跡と呼ばずに何と呼びましょうか。

 

お読み頂いて有難うございます。

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