ブログ

2025-03-23 11:39:00

孤食・個食

 おはようございます。だいぶ春らしく暖かくなってきた氣がします。菜の花と聖護院大根がたくさんあるので、お待ちしております。昨日は、たくさんの人がいらっしゃってくれました。お客様が来てから、「いらっしゃいませ」か「こんにちは」というご挨拶と共に、同じ空間に行き、できる限り変なプレッシャーを与えないように意識しています。もちろん、お客様の愛から来る行動でお買い上げ頂くことは、大変有り難い限りです。しかし、自分が無意識に与えてしまったプレッシャーから買わないと氣まずいと思われてお買い上げ頂くのは、申し訳ない氣がします。同じように買うという行動という点では、同じように見えるかもしれませんが、違うもののような氣がしています。また、店内でご飲食できるようにしました。自分自身も極力1人で食事することを避けたいという想いから、飲食店の営業許可がないので、飲食店の看板は出せませんが、食べたい人は食べて行って下さいというような「誰でも食堂」「子ども食堂」的な位置付けでしょうか。人が美味しそうに食べているのを見て喜びを感じるのですが、皆様もそう感じることはありますか?自分がほとんど食べていなくても満たされたり、少ししか食べていないのに、心が満たされてお腹いっぱいに感じたり。オキシトシンという幸せホルモンが出ているのでしょうか。割と孤食している方が多い氣がするので、それらを減らしていけたらと思います。

 和多志は、高校生くらいから、自分で選んで食べていました。親が作ってくれたお料理に対して自分のこだわりから、食べられるもの、食べられないものを決めて、それしか食べませんでした。親も自分が何だったら食べられるか確認して作ってくれたりしました。本当に我儘を受け入れてくれて、有難うございます。大學生になってからは、それも申し訳なく感じて、個人プレーで自分が食べたいものは自分で作るようになりました。実家を出たというのも大きな理由の1つです。自分でやるしかない状況になって、作れるようになりました。実家にいた時には、勉強したり、本を読んだり、自分の好きなことをする為に時間を費やすことができたのですが、その親がいないとなると、自分でやるしかないです。料理を準備するという時間が必要になりました。ずっと実家に居たら、こんなこと氣がつけなかったです。仮に氣がつけたとしても、そこまで身を持って有り難みを感じることは出来ませんでした。とても良い學びの機会です。全て摂食障害がその機会をくれました。もちろん、その渦中にいた時には、有り難いと思う余裕がありませんでした。しかし、今の自分であれば、どんな状況や境遇や事態に対しても、そこには必ず意味があって、自分が必要な學びをする為に起きていることだと受け入れて感謝することができるような氣がしています。実際に起きてみないと、本当にそうできるかは、わかりませんが。

彌榮ー

2025-03-21 11:39:00

「お金のいらない國」著者長島龍人さん

 おはようございます。最近、夢をまた見るようになりました。厳密には、夢をみていても起きた時にはそれを忘れているだけなのかもしれません。小学生や中学生位までは、よく空を飛んでいるような夢を見ていました。最近になって、再び夢を覚えているようになりました。今日は、「お金のいらない国」著者長島龍人さんとお会いできることになりました。数年前から、何となく理想としていた「お金の要らない國」。これを実現することで、あらゆる問題や悩みが根本解決されるのではないか、と本氣で思っています。今日は、この本を1990年代に書かれた長島さんの想いや世界をどのように認識しているのか、また、なぜそのような理想を掲げるようになったのか、本の文面だけでは理解できない部分についても、聞くことができたら嬉しいと思っています。そんなにがっつりお話ができるのか、わかりませんが、同じ理想を掲げる同志として勝手に思ってしまっているので、なんだか凄くワクワクしています。後日その結果を記事にしたいと思います。

 また、先日同年代で、政治に志す望月さんがお店にやって来ました。同じ年代で日本を変えようと実際に一歩踏み出している方を見て、凄いと思いました。自分には、日本を変えていく為の一歩として、政治家になることが王道ではありますが、それが相応しいのか、本当に正しいステップなのか、未だわかりません。別に不正解が怖いというのではなく、時間とお金を投資することになるので、そこに対して真剣に情報収集している段階です。彼は、国家公務員を経て、衆議院と参議院の議員秘書を経て、去年議員選挙にも出馬したようです。そこについて、自分が確信を持てる為に、勉強をしています。自分は政治家を目指している訳ではないですが、國を変える為には、それしかないと思えれば、その時には既に行動しているかもしれません。お楽しみに

彌榮ー

2025-03-19 11:39:00

今後のブログ頻度について

 おはようございます。今日は父親の誕生日です。生まれて初めて父に手紙書きました。想いよ届け。今朝は6:40頃に雹が降って、その後雪になりました。お野菜の受け取りと、ポン菓子機が届いて試しに使っていたら、遅くなりました。音が物凄いと聞いていたので、ビクビクしておりましたが、音はギリギリ大丈夫そうですが、白煙が凄かったです。Mさん、有難うございます。今日は久々に料理をしました。料理と言ってもレンズ豆にターメリックと塩で似た後に、ココナッツオイルとクミンホールとコリアンダーホールでテンパリングしただけです。あと、タマリンドで酸味を加えて、味噌でコクを出しました。仕上げにたまたま来たのらぼう菜の菜の花を入れて完成です。

 また、昨日はお休みを頂いて「なないろ畑」さんに行って来ました。青葉台駅から車で40分位です。ここは、日本で初めて?CSA(Community Supported Agriculture)という考えを取り入れた農家さんです。地元に人が積極的に手伝って運営されていました。ここをモデルに全国に広がっていくことを目指して活動されていました。また、その為には、まずはここが経営できるというお手本を作る必要があるとのことです。色々な所の自治体の視察も増えているようです。畑を周りながら、採れたてのお野菜を食べさせて頂きました。送られてくるお野菜とその場で食べるお野菜、どうしてこんなにも味が違うのだろうか。同じお野菜のはずなのに。ここから、また新しい御縁を頂けそうなそんな素敵な時間を過ごせました。氣づいたら夕方でした。雨は帰宅するまで、降らずにとても恵まれていると感じました。ご紹介頂いたFさん、いつも有難うございます。

 ブログについては、マンネリ、ネタ切れ感が否めないので、週3回とします。

彌榮ー

2025-03-18 11:39:00

おはようございます。

 おはようございます。今日は定休日で、神奈川の農家さんの畑に行ってきます。昨日は久しぶりに地元の友人と会いました。みんな大人になっていました。人数が多過ぎてあまり深い話はできませんでしたが、自分のやろうとしていることはお話出来ました。無理なことだと思われているような印象を受けましたが、人間が想像できることは、必ず人間が創造できることだと思うので、変わらず進んで行きます。1人でできることも限られているので、力を合わせて助け合いながら、実現させて行きたいです。ブログは考えて、夕方以降にアップするかもしれませんし、このままかもしれません。

2025-03-17 11:39:00

『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢

 おはようございます。昨日は急に冷え込んで来ましたね。かと思うと今日は暖かいです。もう春がすぐそこまで来ていますね。

 昨日は、結婚したことない自分が結婚について語ってしまい、申し訳ございませんでした。和多志がハマっているアニメ「チ ー地球の運動についてー」が土曜日に最終回を迎えました。今回も非常に面白い内容でした。この作者の20代の魚登さんの作品をもっとみたいです。漫画読むのがあまり得意でないのですが、そろそろ漫画の読み方を覚えた方が良いのかもしれないと思いました。漫画から教わることって結構多いとよく聞きます。

 皆様は、たとえどんな犠牲を払ってでも、成し遂げたいことはございますか?和多志も自分がこのような想いを抱くなんて想像もしていませんでしたが、それに近いようなことがあります。ところで、ギリシャ語で「驚き」「驚嘆」「驚愕」を意味する「タウマゼイン」。古代ギリシャでは「知的探究の始まりにある驚異」とされているこの言葉。この世の美しさに痺れる肉体のこと、そして、それに近づきたいと願う精神のこと。つまり―――「?」と、感じること。和多志はアニメを通じて初めてこの言葉を知りました。まさに自分はこのタウマゼインに突き動かされているのではないか、と氣がつきました。真理を知ることが、最近特にとても面白いと感じます。信じることと疑うこと。和多志はどんなもともまず信じたいと思います。ただ、自分が思っていること、感じていること、考えていることに対しては、常にどこかで疑っている氣もします。

***引用***

 『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なことじゃないかってことです。

 第三者に反論が許されないそれは―――――信仰だ。

 信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究とは棲み分けられるべきでは?

(4巻 p120~123)オクジー

***引用***

アニメの中のオクジーさんの考え方と自分の考えが似ていると感じました。彼の言うそれは、科学哲学者のカール=ポパーの言う「反証可能性」であり、心理学者の鈴木光太郎の言う「科学とは、絶対的真実を認めず、常に誤りを修正し続ける活動」でもあるようです。和多志は自分の人生の体験経験を通じて、今のこのようなスタンスとなっていますが、これは、単に学術や研究に限らず、どんな人間にも持った方が良い考え方や意識な氣がします。また、常に疑念と信念を持つことが大事なのかもしれません。疑念がないと、それは盲信であり信仰であると思います。信念がないと、道を失ってしまうと思います。

「より洗練されたものになるために反論可能性を残すべきという科的な態度」と、「自分を感動させたもののために他人の言葉に耳を貸さず己の心に殉じるという信仰への態度」は、オクジーの中で矛盾しません。前者は世界にとっての地動説であり、後者はオクジーにとっての地動説。別の言い方をすれば、前者は地動説という枠の内側での論理的整合性の話であり、後者はその枠組みそのものへの思いなのです。彼の生命は、この後に絶たれるのかもしれません。ですが、地動説を残そうとする彼の思いは、また次の人間へと託されるはずなのです。それは積み重なる知なのです。アニメを見ていない方は申し訳ございません。

「この世の美しさを追求したい。たとえ、どんな犠牲や代償を払っても。」

「迷いの中に倫理がある。迷わなくなった時点で、信念が呪いとなる。迷い続けることで、色々なものが見えてくる。」

 

彌榮ー

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