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立ち上がる大和魂
おはようございます。昨日は有名YouTuberのヒカルさんが「財務省解体デモ」という政治ネタを取り上げた動画を拝見させて頂きました。それをきっかけに、青汁王子(三崎さん)も翌日それに関する動画をあげたようです。影響力のある方が、メディアが報じない内容を取り上げることで、あまり関心のない方々でも、考え直すきっかけになるのは、本当に有り難いことです。ヒカルさんは、ご自身の会社で製品を作ったりしているので、影響はなかったようですが、青汁王子は、この動画配信の翌日に取引先であった大手企業から、突然契約解除を言い渡され売上1億円分の契約を失ったようです。また、この事実に疑問を持って、社会や世の中にについて考える方が増えるという点において、この2人が行った言動は非常に価値のあることに思います。また、いつ動画が削除されるのかは、わかりませんが。また、彼らに対してのどのような制裁が為されるのか、わかりませんが、1人でもアクションを起こせば、それに乗っかってアクションを起こす人たちは多い氣がしています。日本の大和魂を持った我々なら。
https://youtu.be/noYdEHx-lJU?si=k-cREsY2as2Bn3iy
(ヒカルさんの動画 令和の虎の林さんとの対談形式)
和多志も以前まで、政治には全く関心がなかったです。どこかで、諦めていました。投票したところで、どこの誰になったって、何も変わらないと思っていました。ところが、意外にも、周りで話してみると、社会システムに対しての疑問や問題意識を持っている人がいかにも多いということを感じました。また、普段の生活や生きている中で感じる様々な感情があると思います。それらは、この社会システムを変えていくことで、解決されていく問題が多いのではないのか?そう思うようになりました。昔は、どこかで、ありのままを受け入れてしまっていました。しかし、それは、良い面もありますが、悪い面もある氣がしています。
例えば、お医者さんに行って、自分の体調や調子や病氣の原因が、遺伝などの自分が生まれた以前の問題であった場合どうだろうか?それは、もうどうしようもないことだと諦めることになる人が多いと思います。「それは生まれつき与えられているんだ、という言い方は宗教や政治指導者にとって、人々を盲従させる都合の良い道具になる危険性がある」(ロック、人間知性論)という言葉を残していますが、まさにその通りに思います。和多志は、医療に対して、「原因は遺伝である」と判断することに、非常に疑問を感じていました。それは、医者というプロの立場で、お手上げしている状況ではないか。とずっと思っていました。それは、ある意味で、我々に対して諦めさせるようなものだと思います。少なくとも、お医者さんの立場で、原因は遺伝だと諦めないで欲しいと思います。また、この医療の例だけでなく、生まれた時点で、既に存在していたことや、ものに対して疑問や問題意識を抱かない人が多いと思います。それは、ある意味で、教育で洗脳されて来たのだと思います。この洗脳や思い込み、誤った認識を変えていく過程が必要に思います。もちろん、未だ洗脳されていない若い子どもたちには、誤った考え方を入れないようにしていきたいです。全てはその子どもが、どのように認識したかに依拠していると思います。
彌榮ー
自由への教育
本日は臨時休業を頂いて、外出予定でしたが、なくなったので、通常通り営業しております。先ほど、和多志に「チ ー地球の運動についてー」というアニメを観るきっかけを頂いたお客様がご来店されました。その方は、旦那様が理系で天文について語り出すと止まらない方のようです。和多志は文系で天文についてあまり詳しくありませんが、大変ハマりました。このアニメを通じて、文字や言葉の持つ可能性及び危険性について氣づかせて頂きました。有難うございます。
現在、教育と哲學に興味を持っています。ある尊敬する整体の先生がきっかけで、ルドルフ・シュタイナーさんのことを数年前に知り、氣になって5冊ほど本を読ませて頂きました。ところが、抽象概念が多くて読んだつもりでまったく頭の中には入っていない、という印象です。もう少し自分自身の器を広げた後に再度挑戦してみようと思います。割と有名になって来たので、ご存知の方も多いかもしれませんが、ご存知でしょうか?
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、オーストリア生まれの哲學者、教育者、神秘思想家です。科學と神秘性の統合を目指し、人智學を確立しました。また、シュタイナー教育を考案し、世界中に広めました。芸術、医療、農業など幅広く活動した方です。
和多志は、まだまだ皆様に語れるほど、深く理解できておりません。まずは、シュタイナー教育のことを知ってから、彼の哲學を理解する助けになれば、良いと思っています。
シュタイナーは教育のことを「自由への教育」と表現しています。自由を得るための教育。まさに、その通りな氣がしてなりません。また、この自由についても具体的に定義しています。シュタイナーの言う自由とは、”want to(やりたいこと) = have to(やらなければならないこと)が一致した所に生まれるもの”だと表現しています。和多志も自分自身が何をしたいのか?わからない時期もありました。この問題に直面している人がこの國には多いと思います。それは、社会や世間や周りからの要請やルールやしなければならないことが、多過ぎるからだと思っています。ただ、これはシュタイナーが言っているhave toの意味とは異なります。 それは、氏命や天命を見つけることであり、自分で見つけた課題に向き合うことだと、言っています。和多志も、これまで公務員試験に落ちたり、会社をクビ(退職勧奨)になったこともあります。ただ、振り返って思うのは、そのどれも全ての経験が今の自分の道を正す為にあった経験だと思えます。また、本当に多くの人に恵まれていると感じています。これらの全てに経験を通して、自分の氏命や天命と思われるものに出会えた氣がします。また、これはシュタイナーが言っているwant to = have toが一致している所に生まれたもののような氣がします。
Thinking 思考ー頭
Feeling 感覚、感情ー心
Willing 意志ー手足
これらの3つの違いを理解しながら、教えることが大事とされています。また、0-7歳の時期に「善」=意志の発達をする時期だと考えられていて、大人の模倣をします。また、7-14歳の時期に「美」=感情の発達をする時期だと考えられていて、誰の真似をするのか自分で選ぶようになるようです。
ルドルフ・シュタイナー「教育者は世界秩序の代表者」という名言がありますが、これは、7-14歳に子どもが尊敬できる人に出会うか、という視点が非常に重要なことから、このように表現されたようです。また、後のその尊敬する人及び秩序から離れることの重要性も説明しています。※「守破離(しゅはり)」とは、茶道や武道などの修行の過程や成長段階を表す言葉で、基本を学び、発展させ、独自の境地を目指すことを意味します。
和多志が教育に興味を持った理由は、幼少期に教えられたことは、潜在意識の中にすーっと入りやすく、11歳頃から潜在意識と顕在意識の間に壁ができるということ(これも尊敬する整体の先生から學んだこと)を、自分自身の経験を通じて學んだことがきっかけでした。自分は摂食障害というきっかけがあったお陰で、自分自身が変わるきっかけを頂けました。ただ、そのように半ば強制的に自分と向き合うきっかけを頂けなかったら、そこに向き合っていなかった可能性が高いです。
例えば、健康な人は、健康に対して意識しない方が多いと思います。実際に自分が健康を害して初めて、本当の意味での健康の有り難みがわかるのだと思います。それによって、もう同じような過ちを繰り返さないように、思考や意識が変わり、実際の日々の行動が変わってくるのだと思います。あるいは、世間的に、癌や病氣で亡くなっていると言う情報を受けて、それに対して恐れて意識する方もいるかもしれません。和多志は摂食障害克服に約8年という時間を要しました。その中で、本当に数えきれないほどの経験を積むことが出来ました。ただ、日本という國全体で考えたら、最初からそこと向き合わずに、生きていける人が増えたら、もっと平和な世の中になるのではないか、と思いました。小学生、中学生、高校生という若さで自分の命を絶つ人が増えているようですが、信じられないです。ただ、見方を変えると、その若さで人生について本氣で考えているのかもしれません。もしくは、誤った世界の認識によって絶望し、楽になりたくて死んでしまうのかもしれません。これらは、世界に対しての認識を改めていくことで、子どもに限らず大人も自由を獲得して、充実した人生を生きていけると信じています。そんな思いを抱いていたら、勝手に教育に興味を持っていました。自分にできることは何か考えていました。
歯切れが悪いかもしれませんが、ここまでにします。今日もお読み頂き有難うございます。
彌榮ー
自分の枠や器を広げる
おはようございます。昨日は定休日でしたので、あるクリスチャン5年の方とお話する機会がございました。凄い饒舌で、何かお話する度に聖書での例え話や解釈を説明されていました。信仰が強いのでしょうか?何の為に宗教を行うのか?それは「自分自身がより善く生きられる為」だと和多志は思います。仮にその宗教を数年學び実践して、自分自身が善く生きれていると自信を持って言えないのならば、それは、単にあなたの世界や視界を狭めてしまっているだけのように思います。昨日お話した方は20代半ばの方でした。人を変えることは、難しいので、変えるつもりはございませんが、その若さで、これが絶対的なものだと決めつけてしまっているような氣がして、親心のように心配になりました。
今日は、言葉についてです。皆様は「言葉」をどのように捉えていますか? 幼い頃に、自己表現やコミュニケーションの道具などと教わった記憶があるかもしれません。和多志もこれまで、そのように捉えていた嫌いはございます。このように、自己表現の為の道具としての認識によって、自分のことを決めつけてしまい、自分が変化するという視点に欠けてしまう恐れが生まれて来てしまう氣がします。「和多志はこうだ」という檻から出ることが出来ない。頑固な態度や姿勢を生んでしまいかねないです。
ところが、ある本の中で「言葉の本質は、自己表現やコミュニケーションの道具ではない。それは自分の中に他者を受け入れること」という言葉に非常に感銘を受けて、まさにその通りではないか。と思いました。また、言葉をこのように定義・認識することによって、生き方までもが変わってくる可能性だってあり得ると思います。もちろん、ポジティブな意味で変化する可能性があると思います。
本来、言葉は美しいもの。自由にしてくれるもの。だと思います。しかし一方で、意識をその檻の内部に閉じ込めてしまうもの。でもあると思います。和多志は日本語しか話せませんが、最近では2−3ヶ国語話せる方も増えているように思います。全てのことに共通して言えることかもしれませんが、何か1つしか知らないということは、比較対象がなく、余計にその言葉の檻の中に閉じ込められてしまう可能性が高い氣がしています。なので、和多志は、日本語という母語を使用することによって、どういった思考や傾向になりやすい、またどのような言葉の檻に閉じ込められているのか、認識出来ていない、という風に言うことができると思います。
もちろん、言葉が使えることで、物事の差異を認識できるようになったことは大きいと思います。日本語では蝶と蛾を区別して表現しますが、他の言語ではまとめて表現する言語もあるだろうし、蝶々の色まで付けてそれにバラバラの名前をつける言語もあるだろうと思います。言葉を持つことで、差異を豊かにしていくことができるのだと思います。今まで見えなかった違いが見えるようになってくるという、「無知の知」を自覚して、もっともっと色々な景色が見たくなるかもしれません。ただ、それを認識することで、どこまで行っても、自分が全てを知っているということなんてあり得ないという智慧が生まれてくる氣がします。
和多志は、幼い頃から、「どんな人の考えや意見もまず受け入れよう」と意識して参りました。その為、色々なネットワークビジネスや投資話や詐欺などの経験をさせて頂く機会は多く頂けました。別にネットワークビジネスじゃなくても良かったのかもしれません。笑 ただ、そのようなことを経験しても、自分のスタンスは変えませんでした。そんな時にある尊敬する整体の先生から、「人が成長していくためには、”自分の考えの枠の外の情報”に触れてそれを取り込んでいくこと」と聞いて、なんだか自分がこれまで行ってきたことが、肯定されたような氣がしました。「構築・脱構築」と言うようです。これは、”自分では考え出せないものの中に、答え、解決策がある”という非常に大事な氣づきを頂きました。まさに、その通りだと思います。自分の中で考えられていたら、その問題は問題ではないはずです。しかし、それが、問題となっているということは、他の考えや新しい考えに触れる必要があると思います。和多志は、これまで、あまり誰かに相談するのが得意ではありませんでしたが、(自分の今の状況と同じ状況を体験して、自分と全く同じ経験をして来た人はいないから、意味がないのかもしれない)もしかしたら、相談することの意味は、自分では考え出せないものの見方や考え方や認識を得るためなのかもしれません。(相談相手は、自分とは全く同じではない経験をして来たからこそ、違った見方や考え方や視点を持つことができたのだと) ただ、言葉は常に不完全なものであるという理解とともに、言葉に触れる必要性があると思います。それは時ととして思い込みを生む可能性があると思います。使い方によっては「諸刃の剣」になると思いますが、今、和多志はまさに言葉の魅力に魅了されています。
お読み頂いて有難うございます。今日も感謝と歓喜に満ちた心でお過ごし下さい。怒らず、怒らず、悲しまず
彌榮ー
原因は結果であり、結果もまた原因である?
おはようございます。本日は定休日です。
昨日、書かせて頂いた「笑顔だから幸せになる」「幸せだから笑顔になる」皆さんはどちらだと思いますか?和多志はこの疑問をだいぶ前から、心の中で抱いていました。ある時から、確信を持てたような氣がしています。また、最近これに似たもので、「声が出すから元氣になる」「元氣だから声が出る」を考えるようになりました。というのも、今お世話になっている70代女性のKさんや和多志の親の友人Oさん、皆さん年齢よりもだいぶ若々しく見えて、しかもエネルギッシュなのです。中身は変われど、自分は前者の捉え方をするようになりました。一見、結果のように捉えられる事柄も、ある意味では原因にも成りうるし、またその逆にも成りうるのかもしれません。
ある本を読んだ方から聞いたお話があります。それは、自分の子どもが學校で悪さをしたときには、何かそのようにしてしまった事情があるのでは?とそこについてのより深い原因を探ろうとする傾向があるように思います。ところが、これが、飼っているにゃんこやわんこであると、おしっこを床にしたり、洋服を歯でちぎったり悪さすることを、結果として捉えて叱ったり、躾して正そうとするという傾向があるのでは?という問題提起でした。確かに、ペットの場合にも、そのように行動したのには、さらに原因があると考えられます。この叱るということをサイレンを消すというような表現をされていました。何か問題が起きた時に、そのサイレンを消しただけでは、根本原因は解決されず、また違った形でサイレンを出し続けるような氣がします。それは、サイレンを消すのではなく、その元となっている根本的な問題を解決する必要があります。それは、まるで病氣になったときに、肉体的な症状にだけ目を向けて、それを治療して肉体的に治癒させただけでは、サイレンを消しただけであって、根本解決にはなっていない。心を治癒する必要がある。そんなような氣がします。
今日は短めですが、こちらで失礼します。出かけて来ます。
彌榮ー
積極性を取り戻す
おはようございます。本日は祝日の為、17時までの営業となります。いつもお読み頂いて、有難うございます。毎週土曜日の深夜に放送される「チ ー地球の運動についてー」の最新話を拝見させて頂きました。今回もとても面白い内容でした。
特に印象的だった内容は、異端審問官として天文學の地動説を研究する者たちを異端者として処刑してきたノヴァクさんが、自分の行なってきた行動(殺人)について、自省・後悔するという場面です。自分が信じてきたものが、間違えだったと氣づいた時、人によって色々な反応があると思います。受け入れようとしないで、無視したり。ノヴァクさんは、その過ちを素直に反省して、後悔している様子に感じられました。それは、娘のヨレンタさんが亡くなってしまったことも大きな原因の1つに思います。
「何かを信じる」ということは、それだけパワーを頂ける、強くなれるものだと思います。
「信念は、人を生かす力である。」- (トマス・カーライル)、
「信念を持たない者は、どんなに速く走っても、道を見失ってしまう。」- (ゴードン・B・ヒンクリー)
「信念と勇気を持って、自分の人生を切り開いていけ。」- (ヘレン・ケラー)
「信念があるからこそ、人は成長できる。」-( アリストテレス)
「信念と勇気を持って挑戦しなければ、夢は実現しない。」- (ジョン・F・ケネディ)名言もございます。(リンカーンとジョン・F・ケネディ大統領は、アメリカに金融資本家たちの支配を受けない政府紙幣を発行する大統領令を出した後に射殺されたとされています。)信念を持つことに対する重要性は、歴史に名を残した偉人たちが多く言っています。
しかし、「何を信じるか」という点は、非常に重要だと思います。誤った現状認識や知識や智慧で、誤った信念を持ってしまうと、間違った行動を犯してしまい、誰かに迷惑を掛けてしまう可能性があるからです。今回の教訓や著者が伝えたい内容は「無知の知」であったように感じました。「自分が何も知らない、ということを知ること」です。この現状認識をしていないと、現状認識に歪みが生じて、正しい認知ができなくなってしまう氣がしています。
また、「何を信じるか」をどのようにして見つけていくのか?それは色々なやり方があると思います。和多志の場合は、思考のストッパーを外して、どんなこともまずは実行するというスタンスで行って来ました。思い立ったら即行動。割と行動力には自信があります。それ以外はないかもしれませんが笑。そんな自分も受け入れています。
しかし、世の中には、やたらルールと言われるものであったり、こうしなければならないなどがございます。信号機は、歩行者の安全性を守る為に作られたのに、車が全く来ていない、安全確認できる状態で、赤だからという理由だけで止まる意味がわかりません。また、電車内でスマホで電話してはいけない、とされている理由がわかりません。電車内で2人で会話することは、一般的に許されているのに、なぜかスマホで通話となるとお控え下さいと決められています。(変なこと言っていたら申し訳ございません。) 自分だけ変わった見方をしている可能性もあるかもしれませんが、この國には、そのような理解し難いルールや決まりことが多過ぎる氣がしています。ルールに破った人には、経済的または、肉体的、時間的な罰が与えられます。
それ故、行動したらこうなっちゃうから、辞めておこう、と、やりたいと少しでも思ったこと、思いついたことを、頭の中だけで自己解決して、行動せずに辞めてしまう、諦めてしまう方も多いと思います。和多志はこれは、そういった意図的に行動させないように、仕組まれているような氣がしてなりません。その枠をぶっ壊して、破壊して行動を繰り返す先に、少しずつ自分の信念が確立されていくのだと思います。その中でも、新しい考えや人や環境との出会い、というのは大切に思います。その自分には無い考え方を否定せずに、賛同まで行かなくても理解しようとして行きます。また、世界の中にいるちっぽけな自分という誤った現状認識を改めることも、自分自身を積極化させることに役立つと思います。自分の直感に従ってあらゆる行動を繰り返し、自分にも相手にも正直で素直であれば、きっと道は拓かれると思います。これらの決断や選択と実行と自省を繰り返して行く先に、自信や信念に繋がる氣づきを得られるような氣がしています。
和多志も積極的かどうか、わかりません。ただ、消極的だと思っている方や一歩踏み出せずにもやもやしている人は、口癖や発する言葉を変える意識をしても良いと思います。自分がそう思っていないのに、言えないよーという人が多いと思います。和多志も嘘がつけないタイプでしたので、そのお氣持ちが本当によくわかります。ここで、質問です。あなたはどっちだと思いますか?「笑顔で居るから幸せになる」「幸せだから笑顔になる」。笑顔と幸せを、原因と結果のどちらとして捉えるのか?という問題です。問題というより正解はありません。ただ、自分は、ある時から、「笑顔で居るから幸せになる」と本氣で思うようになってから、正しく認識できるようになった氣がします。しかし、悲しいかな、自分が思ったようにしかならないのが現実だと思います。それなら、自分で「笑顔で居るから幸せになる」と決めて思った方が良く無いでしょうか?
彌榮ー