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2025-02-23 11:39:00

親子の絆

 本日は臨時休業となります。中村天風研究会の勉強会に初めて参加させて頂きます。その内容も後日こちらで共有させて頂けたらと思います。

 昨日は、ご来店頂いた母親のテニス仲間のOさんと1時間以上お話させて頂きました。自分が引き止めて延長させて頂きました。途中、一瞬雪が降りました。東京の初雪でした。Oさんは、母親と一緒に最初にご来店頂いたのですが、その時に和多志がぽろっと言った母についての発言の本意を確かめるという名目でご来店されました。母親のことをそれだけ思って頂いている方なんだと嬉しく思いました。

 母親の友人から見た母親ってどんな人間に写っているんだろう?というのは、非常に氣になる所でした。会話の中で、Oさんからそれについての言及がありました。おそらく、初めての経験でした。そこで、言っていたのは「人に恵まれている・真面目・人に尽くす・明るく元氣」という内容だったと記憶しています。和多志は母親に対して「真面目で人に尽くす、何でも話せる、どんなことを言っても受け入れてもらえる、」という印象があり、時々、自分を犠牲にしたり、我慢し過ぎているのではないか?と心配になる時があります。もちろん、人によって、人の印象というのは大きく異なるものだと思います。ただ、Oさんと1時間以上話して、非常に信頼できる方という印象を抱かせて頂きました。今後も母親のことをよろしくお願い致しますとお伝えしたいです。

 また、自分は「人に恵まれている、真面目で人の為にやり過ぎてしまうことがある、嘘つかないし、嘘つけない」という印象があります。自分で自分のことを真面目というのは、笑われるかもしれませんが、摂食障害になるのは、真面目な人以外ならないと思っています。(もし、自称不真面目で摂食障害の方がいたら、大変申し訳ございません。どうか氣を悪くしないで下さい。) また、人のためにやり過ぎてしまう、ことも実体験として自分で認識している部分です。お金の話がわかりやすいと思います。ある特定の人にお金を貸した話です。これは、話すと本や映画を作れてしまう位、濃厚な内容なので、氣になる方は直接聞いて下さい。

 これらの自分自身の認識の中に、矢張り母親が持っている要素や氣質を持っているということに少し驚きました。というのも、家族は修行だとずっと考えていました。それは、肉体的な特徴は似ることはあっても、魂的にはお互いが最も成長できる環境を選んできていると考えいた為です。氣質、性質、性格と魂についての関係性は未だ勉強中ですが、その自分の中に今存在している大事な要素(例えば、人に恵まれていること、嘘をつかないこと、騙さないこと、)は、母親とお腹の中にいた頃から長い間一緒の時間を過ごすことで、引き継がせて頂いたものなのかもしれない、という大変貴重な氣づきを頂きました。全ては、Oさんの思いやり、親切心のお陰です。すぐに、母親に対して、LINEにて情報共有とお礼を伝えました。「産んでくれて、有難うございます。人に騙されることはあっても、騙すことはこれまでもこれからも絶対にない人に育てて頂いて有難うございます。もっと本来の自分、本当の自分の氣持ちを大切に楽しい日々を送って下さい。遠くから見守っています。」

彌榮ー

2025-02-22 11:39:00

宗教と信念

 「宗教」について、皆様はどのお考えでしょうか?また、我々が宗教に入信したり、洗礼を受けるのは、どうして、どのようなタイミングなのでしょうか?

 日本だと、皆様も1度は創価學会のお誘いを受けたことがあるのではないでしょうか?やっている方を否定も肯定もしません。しかし、「選挙前になると思い出したかのように、急に連絡して来るのだけは辞めて下さい」笑

それに対して、相手はどう思うでしょうか?上手い例えが思いつきませんが、「お給料日になったから、人にお金を借りたり、奢ってもらったり」「出世や有名になったから、急に連絡してきたり」「ネットワークビジネスの勧誘の為に人を誘う」のと同類な氣がしています。全ては、相手がどのように捉えるか、その視点を欠いている氣がしてなりません。これは、完全に和多志の主観です。所属されている方を、否定しているつもりはございませんし、これは、和多志に御縁の合った方々に対して抱いた率直な感想です。

 和多志は、高校生の時に、小學生の時からの友人に誘われて碑文谷にある会館に行ったことを覚えています。お経を上げました。しかし、入信はしませんでした。それは、やる意味があまりわからなかったです。もちろん、やってみないと何もわからない、と思いますが、やりたいとも思えませんでした。この決断は今でも後悔していません。

 宗教に限らず、ある組織や企業にお金を投じるということは、そのお金が最終的に誰のもとに行くのか?そこも考える必要があると思っています。というのも、自分の中で、日本の宗教法人は企業との癒着やお金の繋がりが多い氣がしています。「統一教会は政治を束ねて、創価学会は企業を束ねる」という考えもあります。宗教や信念に働きかけて、洗脳して、都合の良いように、動かされているだけな氣がしてなりません。もちろん、教えだけ見れば、素敵な内容も多いんだと思います。それなら、お金を払って、仲間を募ったり、増やしたりすることに、何の意味があるのでしょうか?単純に、考えだけなら本や人からの話を聞いて、自分で學ぶだけで良くないでしょうか?どうも、「宗教内で評価されること=宗教法人の出資者や大元の狙いや都合の良いことをすること」という氣がしてなりません。これは、持論ですが、「宗教組織に属すること≠宗教を學ぶ」で、學ぶ以外の余計なものが多過ぎると思います。

 和多志は學生時代に摂食障害でした。当時、自分の中に確固たる信念(それがどこかの宗教かわかりませんが)があれば、苦しまずに済んだかもしれません。しかし、今では貴重な経験をさせて頂けたと感謝しています。今も、信念と言えるものがあるのか、わかりませんが、自分ではあると思っていますが、自分の人生における体験や経験を通じて自分なりの人生哲學が持てている氣がしています。この考えと、著名な偉人や本で出会った考えと似ていることが非常に多くて驚いている日々です。これは、人それぞれの好みもあるかもしれませんが、自分は「文字は奇跡だ」と感じていますが、奇跡だと感じられる為には条件があるような氣がします。宗教や哲學的な教えを學んだだけで、それを自分の人生のすぐに取り入れて実行できる人が、どれほどいるでしょうか?少なくとも和多志は、読んだだけじゃ変わらないと思っていました。自分の肉体や体を使って経験したり体験したこと、それに自分の感情が加わり、それらを振り返った時に、色々な出来事を集約して自分の中での生きた知恵として、心に刻む(帰納法)ことで、少しずつ自分の中での人生哲學を築いている氣がします。しかし、常に意識していることは、自分の経験則や五感で感じたり認識したりできることを過信しすぎずに、常に断定せずに「そうかもしれない」(そうではない可能性も含む)と捉えるようにしています。

 最近、思うことは、「信念とは別に宗教や哲學に限ったことではない。常に自分の描いた高い理想やビジョンやこう在りたいという志も信念に成り得る」と?

 心にどこかぽっかり隙間が空いている状況のときであったり、社会の中に存在するちっぽけな自分という認識を抱いている時に、宗教に入りやすいのかもしれません。

 是非、皆様のことも教えて下さい。和多志は特定の宗教には属していません。何かを盲信することで、視野が狭くなる、偏った見方や捉え方をしてしまう、と考えるからです。心のバランス大事ですね

彌榮ー

 

 

※毎日、ブログ書かれている方々が本当に凄いと思います。書けるだけ、できるだけ、続けて書いて行こうと思います。ネタ切れになる前に皆さんの声を聞かせて下さい。コメント蘭がないので、ご意見やご感想はメールにてお願い致します。iyasakadou369@gmail.com

2025-02-21 11:39:00

文字は、まるで奇跡

 少し前に、お客様から旦那様は今、漫画やアニメの「チ ー地球の運動についてー」にハマっている、というお話を伺いました。

そんな中、普段あまりテレビやネットテレビなど観ないのですが、たまたまabemaを観ていたら、ありました。おそらく、以前にも見覚えがありましたが、改めて思い出させて頂いたようでした。観てすぐにハマり、全話見る為にabema有料会員となり、最新話まで一氣見をしました。現在も最新話が出る度に観ています。

 このアニメをどのように観ているか?というお話だけでも何時間も議論が尽きないような内容でした。特に、物語の中にちょくちょく出て来る「名言」の数といえば、たくさんあります。日本中や世界中で大ブームとなる予感がしています。和多志が知るのが遅くて既にブームとなっているのかもしれませんが。もし、そうでなかったとしたら、それを知られたくない、知られたら困ると思う方々が居るからだと思います。知的好奇心や感動というピュアな氣持ちに突き動かされて、真理の追求を命懸けで行なっていた先人たちが存在していたということを。

 自分が世の中に感じている疑問や認識と、かっこいい、美しい、と感じられるポイントが似ているような氣がして、この原作を書いた当時20代の魚登さんの頭や心の中を覗いてみたくなりました。

 

 「文字が読めるってどんな感じなんですか?みんな平然と読んでいるので。」ー読み書きできないが話せる人に、この質問をされたヨレンタさんが返した言葉:

「文字は、まるで奇跡ですよ。本当に文字は凄いんです。あれが使えると、時間と場所を超越できる。200年前の情報に涙が流れることも、1000年前の噂話で笑うこともある。そんなの、信じられますか?和多志たちの人生は、どうしようもなくこの時代に閉じ込められている。だけど、文字を読むときだけは、かつていた偉人たちが、和多志に向かって口を開いてくれる。その一瞬、この時代から抜け出せる。文字になった思考は、この世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなのまるで奇跡じゃないですか」

 これ以上の、文字を読み書きしたくなるような伝え方や表現はあるだろうか、と思う内容です。

 

 文字や言葉という抽象概念(世界や社会など客観的な概念)が非常に強い力を持って来た昨今だと感じております。ピラミッド型の社会構造の中に我々の自我が放り込まれていて、その中で競争しなければならない、と勘違いさせられている。そんなイメージを作っている、感じさせてしまっているものも、文字ではあると思っています。この認識は、ある一部の方々によって、意図的に植え付けららえているものだと感じています。

 しかし、文字や言葉を通じて、かつての偉人たちとも、一方的に空想的な世界を共有することができる、これを奇跡と呼ばずに何と呼びましょうか。

 

お読み頂いて有難うございます。

2025-02-20 11:39:00

事実をありのままに捉える心

昨日は、常連さんFさんとお話しました。

先週まで、インフルエンザで寝込まれていた方で、ようやく昨日から回復したとのことで、ご来店頂きました。

店内にテーブルと椅子はあるけど、いつも立ち話なので、昨日はやっとテーブルと椅子が大活躍でした。

Fさんとは、去年の開店したタイミングで出会い、料理人という職人さんで、自然栽培業界や農家さんや種のことなど、非常にお詳しい方で、いつも色々教えて頂いたり、ご紹介して頂いたりと、頂いてばかりです。普段は、商品や農家さんや経営など、割と仕事のお話がメインですが、ようやく少し突っ込んだお話が出来ました。特に自分が好きなお話、追求したい真理や世の中についてのお話でした。もちろん、女性のお話も好きです。(と言っておきます)

 

 「お金の要らない世界」という自分の理想とそのように思うに至った経緯や経験や体験についてお話させて頂きました。

 中でも、お金を払うという行為はある種の「覚悟」を決めるという意味合いがある様に思います。

タダにすることで、その有り難みが薄れてしまうことや、元本回収またはそれ以上を回収しようとしてコミットしなくなってしまう可能性も出て来るのではないか?と考えてしまいます。これは、その人の根底に、タダだからそれを受け取る、または貰うという視点があったり、それの商品が物なのかサービスなのかでも、変わってくると思います。

 別の視点では、商品であれ、物であっても、お金を払うという行為が、有難うというお礼を伝えることだけでも同じで良い様に思います。それを目に見える「お金」という物質化しただけなのかもしれません。

  例えば、ある仲の良い友人から、「良いシャンプーがあるから、話を聞いて欲しい」と言われた時にあなたはどう感じるでしょうか?

もし、あなたがちょうど良いシャンプーを探している人であれば、興味を持つかもしれません。また、その仲の良い友人の誘いだから、とりあえず聞いてみようと思う方もいるかもしれません。また、特に何か思うこともなく、まず聞いてみる人もいるかもしれません。あるいは、過去に同じ類のシャンプーで話を聞きに行ったら、ネットワークビジネスの話であり、あまり良い思いをしなかったという方もいるかもしれません。

 いずれにしても、事実としてあるのは、「友人があなたにシャンプーの話を聞いて欲しいと思っている」だけです。にも関わらず、その言葉を聞いた時の解釈は十人十色なのです。これは、自分自身の経験則や感情のフィルターを介してその事実を認識しているからだと思います。もちろん、これに対して否定も肯定もしません。ただ、このように認識する理由には、過去の自分自身の経験や感情と、未来や今を混同してしまっているという見方も原因の1つなのかもしれません。今、目の前の人からの言動を、自分の経験則からある意味「決めつけてしまう」ことと同じなのかもしれません。

 和多志が、いつも考えてしまうことは、「その人が自分の損得勘定なしに、単なる善意で本氣でそれをあなたにお勧めしたいというピュアな想いや氣持ち」を持って、その話を勧めて来ていたとしたら、これは、(その友人が以前から親しいというのはあまり関係ないことかもしれませんが、)その人に対して、大変失礼なことをしてしまっているということです。(それと同時に自分自身が成長する機会を失っている可能性もあるかもしれません。)和多志は、それだけは絶対に避けたいと考えています。そのように割と性善説で考えて来たので、騙される(非常に他責の言い方で恐縮ですが)ことも多々ありました。逆に、自分が騙されるだけで、済んでいます。それだけで済むならとも思えます。決して、善意を持って来てくれる方を疑いたくは、ないです。また、過去騙して来た(全然そのつもりもないし、被害者面して申し訳ございませんが)方々の所為によって、自分自身のピュアな心が汚されたり、信じることが出来なくなったとしたら、それは、悔しいと思いませんか?ということを考えています。

 結果として、そのお話が、ネットワークビジネスで、友人が利益の為に、あなたにお話を聞いて欲しいという事実確認が取れた場合、悲しい氣持ちになる人が多いと思います。仮にそれがネットワークビジネスでも、あなたが本氣で良いと思って使用するようになるかもしれません。その場合には、価値ある情報をお伝えした対価として、情報を伝えた広告料として、友人が利益を得ることには、問題ないのかもしれません。和多志の中で、未だ「お金=汚いもの」というイメージがあるのかもしれません。それを學ぶ為に、お店を始めたのかもしれません。

 また別の見方では、そのお話が仮にネットワークビジネスでも、何かしらあなたにとって新しい情報に触れる機会を頂けた、という可能性もあります。お話を聞いた後に、参加するか、参加しないか、それをあなたは決断することが出来ます。自分を信じて下さい。

 以上の経験をして来た和多志としては、これらのビジネスには極力関わりたくないというのが、正直なところです。(もちろん、皆様にこのようなお話をすることは、これまでもこれからも決してないです。) 変な誤解を招く恐れがあるからです。その道で成功されている方々は凄いと思います。ただ、自分はそうなりたい、そう在りたいとは今は思えていません。三角形や三位一体や3という数字はバランスが取れていて好きなんですが、どうやら、組織を始め△ピラミッド構造があまり好きでは、ございません。皆さん1人1人が年齢性別問わず、対等な存在だと思うからです。

 確かにお金というのは、その人の人間性が最も現れる部分だと、感じています。ただ、お金という概念が無くなったら、愛と平和と調和に溢れる世の中になると思いませんか?

今日も長々と、思っていることを書かせて頂きました。自分もまだまだ、勉強中です。この肉体を通じてしか魂が學べないことを。彌榮

 

 

2025-02-19 10:39:00

『助け合い主義』

昨日はお休みを頂戴して、ある方にお会いして来ました。それは2012年から『助け合い主義』という考え方を実際に実践されているモデル都市の代表者です。

 

 本当に人と人との出会いというのは、素晴らしいものだと感じています。お互いが引き寄せあって出会っているのだと思います。5年以上前から、どこかで自分が理想としていて、よく口にしていた『お金の要らない世界』が、キーワードでした。自分はあまり周りにどう思われるか氣にしません。自分や世界について、どう在りたいかはよくイメージしています。当時から『お金の要らない世界』だけはずっと思い描いていました。今よりも具体的なレベルではございません。

 お金を理由に自殺してしまう人や、お金を理由に嘘をつき人の信頼を失ってしまう人、お金を理由に身体を売る人、お金を理由に魂を売ってしまう政治家や権力者と呼ばれる方々。彼らを見て、そう思いました。お金の支配やお金がない世界であったら、争いが今ほど起きないのではないか?もっと愛に溢れた社会になるのではないか?と。もちろん、彼らには、彼らの事情があって、そのような選択をしているのだと思います。彼らを否定も肯定もするつもりもないですし、できる立場にはありません。しかし、誤った本人の認識がこのような現実を創っているのです。全ては心です。彼らも、ある意味で社会の犠牲者だと感じています。和多志がよく言う言葉で肥満は社会が作り出したものというものがありますが、それに近いかもしれません。もちろん、中には、そんな中でも肥満にならない方もいます。全ては意識です。

 また、この社会に生きていると値段のついているものだけが価値のあるものだと誤認させられてしまう可能性があります。ブランド品や高級車や家など。特に都会に生活していく上では、何をするにもお金が必要な状況や環境です。ところが、自分が今、生きている時間には、値段がついていません。また、皆さんも人の言葉によって救われた経験や、逆に人から言われた言葉で傷心してしまった経験もあるかと思いますが、言葉にも、値段がついていません。昔は自由に発言出来なかった時代もあるようです。和多志は、摂食障害の時に、周りから言われた「痩せた。太った」という言葉に一喜一憂していました。その時から、自分は他人に対して、自分が発する言葉で相手を傷つけたくない、悲しませたくないと思うようになりました。言葉は使い方によって、人の命を救うこともできるし、逆に殺してしまうことだってできてしまう諸刃の剣だと思います。そのような視点もあって、発言が制限されていたのでしょうか?(歴史についてまだまだ勉強中で理解が乏しくて申し訳ございません。)また、それと同時に、どんな言葉を言われても動じない自分でいることも大切な氣がしています。「目の前に起きた事実をどのように解釈するか」それだけは、みな平等に自分で決めることができることのような氣がしています。

 上記のような自分自身の実体験から、「お金の要らない世界」を理想として来ました。これは、下手をすると、陰謀論者と誤解される可能性のある内容だと思います。ただ、確実に言えることは、彼らはその世界を実現に向けて一歩一歩歩みを進めているという事実です。辞めない限り、必ず実現できると思っています。

 皆さんは、この今生きている世界に対して、どのように見ていますか?皆さんとここについて、お話したいと思いました。(ブログを書いている途中でしたが、週1回、少人数でテーブルを囲んで、皆さんの考えや意見を共有する会をしたいと思いました。)

自分の考えが常に正解だという認識はありません。皆さんがどのような人生経験を通じて、どのようなことを學んできて、今、どのように世界を日本を認識しているのか、非常に氣になりました。

 

追記

「今度、中村天風研究会のお話を聞いて来ます。ご興味ある方は是非」

和多志は摂食障害や自分自身の経験や体験を通じてこれまで色々なことを學んで来ました。この3次元は行動の星とよく言われますね。この本意は自分でもよくわかっておりませんが、これまでの人生で自分の行動や体験で學んで来たことしかない氣がしています。もちろん、読んだ本や人から言われた言葉というものにも、良くも悪くも、物凄いエネルギーがあります。ただ、それらをどのように捉えて、自分の考え方や行動を変えていくか、ということが大事なように思います。

自分は本やある人の言葉によって、自分の考え方や生き方が変わったという経験は、これまでの記憶ではあまりありません。人によっては、このような素敵な経験をされている方もいるかもしれません。大谷翔平選手も高校時代に中村天風先生の『運命を拓く』を読んで以降、彼のバイブルとなっているようです。高校生にして、この本の内容を解釈しているのは、本当に凄いと尊敬します。ただ、彼自身でも、本の内容を通じて教わったことを、実際の自分自身の体験や経験を通じて、このことを學んでいる氣がしてなりません。あるいは、幼い頃に聞いた教えというのは、自分が体験したことでなくても、体験したことと同じくらい深いところまで、潜在意識に入っていくのかもしれません。未だ、この地上界においての体験や経験則が少なく、ピュアな状態であるあり、どんな考え方にも染まりやすい時期なのかもしれません。

 

彌榮ー

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